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Buenos Aires 糞バス事情。 くそったれっ!! [Argentina 2017]

ブエノスアイレスの糞バス事情!! 

以前にも書いたように、ブエノスアイレス市内は地下鉄とバスによる交通網がある。
けれど地下鉄はCatedralなど中心部から放射線状に外側へ伸びているだけで、環状にはなっていない。2つの路線が垂直にいくつかの路線を繋げているが、それも中心部寄りで大して役に立っているとは言い難い。しかも夜10時頃には終電になってしまうのでホントに使い勝手が悪い。
ついでに文句を言えば、土日には極端に本数が減ってしまうだけでなく、地下鉄の入口を中央一か所以外、ほとんど閉鎖してしまうので、とっても面倒になったりする。
そんな訳で、巨大な都市ブエノスアイレスを移動するにはバスが必須となる。。。
だがこのバスが地下鉄以上に糞なのだ。。。Mierda!! Shitt!!

ちなみに地下鉄もバスも、Subeと呼ばれるプリペイドカードを購入しなければ、現金では一切利用できない。地下鉄、バスは共通だが、MedellinのColombiaにあるような乗り継ぎ割引のようなシステムはない。約50円と中南米では高めだが、地下鉄とバスを乗り継げば、片道で100円、往復で200円という庶民にはかなり痛い出費となる。

さて、糞バスだ。

たくさんの問題を抱えたバスだが、そもそも乗車時点で問題が発生する。
いわゆるワンマンカーなのだが、市バスの料金が均一でない為、なんと乗車時に各自が運転手に目的地を告げて、運転手が料金を手元のボタンで操作してから、プリペイドカードをかざすことになる。すごい手間だ。ひとつの停留所で10名が乗ってきたらどうなるか考えてみればいい。ひとりずつ行き先を確認して料金を操作するのだ。しかも地下鉄にしろ、バスにしろ、このプリペイドカードの読み込みはとてもひどい。かざすと書いたが、かざしたって糞ほども反応しない。読み取り機にペタっとくっつけて読み込ませるのだが、読んだり読まなかったり、とても精度が悪い。
おまけに料金不足だと夜間一回は乗せてくれるが(プリペイドカードに借入として記録される)、昼間だと降ろされる。。。気づかずにバスを待ってたら、そのバスには乗車拒否され、どこにあるかよく分からないSubeの料金チャージできる店を探すハメになる。怒り心頭だ。

さらに、バス停が複数に分かれ過ぎている。。。過ぎるというやつだ。
そもそもブエノスアイレスの道路はほとんどすべて一方通行だ。両側通行なんて本当に滅多にない。大きな幹線道路でも一方通行だ。
そんな訳で、同一方向でも行先によってバス停が複数に分かれるのは理解できる。
けれどそのバス停が200mにも渡ってあちこちに点在していたら? それは本当にバカげている。
例えば、Santiago(Chile)でもそうだ。けれど行き先の異なるバス停は隣接して一列に並んでいる。
だがブエノスアイレスでは違う。大きな幹線道路だとホントに200mくらいに渡って、あちこちに点在している。
自宅に戻るのに利用できる複数のバスが、離れたバラバラのバス停に止まるなんてことがざらにある。次に来たバスが離れた所にあるバス停に停車する場合はみんな一斉に走り出す。。。わはははははははははは
バカげてる。。。まったく隣接していないし、バスの経路そのものが論理的ではない。乗り継ぎを一切考慮しない料金体系なのでこういう訳の分からないバス経路が出来上がる訳だ。
例えば、Santiagoではバスの乗り換えが平常手段として経路が組まれているので、60分以内の地下鉄やバスの乗り換えはプリペイドカードをかざしてもカウントされない仕組みになっている(何度乗り継いでも同じ)。最初の乗車から乗り継ぎまでが60分以内という制限だが、それで十分に機能している。同じ会社なのだから、当然と言えば当然だ。(もっともSantiagoのバスは料金は1ドル近くする)
Santiagoのバスも屑だが、同じ方向へ向かうバスは始点と終点の違いだけで番号分けされていて、ひたすら往復するだけだ。それぞれの終点や中継点ではまた別の経路のバスがひたすら往復している。市内の幹線道路を同じ方向に向けて、それぞれの市外の行き先に合わせて何本ものバスが山ほど走るなんてバカげた光景だ。交通渋滞だって激しくなる。Santiagoの場合、こういう点はずっと論理的だ。

さて、さらに最大の問題はバスが気ままに経路を変えて走るってことだ。わはははははははははははは
そんなバカなっ!? どうやってそんなバスが機能する!?
Buenos Aires市内は古い建物が保存されている。。。例えば50年以内のアパートなら簡単に建て直しできるが、100年以上のアパート建物なら、外観を残したまま内装だけ建て替えなければならない。それは建物の老朽化に合わせて年中補修工事を必要とする。
だが建てものだけではない。道路もそれに合わせてというべきか年柄年中、補修工事をやっている。面倒なのは一方通行ばかりであるということも忘れてはならない。
道路工事は普通なら半分ずつ、交通量を制限しながら行われる。。。けれどここでは全面通行止めになったりする。
さて。。。道路工事や事故、渋滞などがあると、なんとバスの運転手は勝手にバスの経路を変える。。。
最初に書いたように、乗客の申告によって、バスの運転手は乗客がどこで下車するかを把握しているので、すぐ後ろに同じ番号のバスが続いてたりすると、平気で渋滞や工事などを避けて違う道を勝手に走る。。。実際には乗客の下車予定場所を数百メートルくらい勝手に変更しても平気だ。悪びれる気配もない。
ムカつくのは、バスの中にはアナウンス機能がない。運転手は乗ってきた乗客に、気まぐれに"どこそこは通行止めだから、あっちを回るよ"と伝えてたりするが、それを全乗客に告げる訳ではない。突然、わたしの下車すべき通りを別の筋を走って横切っているなんてしょっちゅうだ。この1週間で言えば、ほぼ毎日違うコースを走りやがった。こっちはどこで降りなきゃならないのか、窓の外をずっと緊張感を持って眺めてなきゃならない。朝なんぞバス停の前の道路を工事している所為で、バスは停車せずに通り過ぎてゆく。。。バカなっ!?
毎日のように異なる経路を走るバスなんて機能するはずがない。みんなそれでも慣れているのか文句ひとつ言わない。。。
まだアパートを変わって2週間のわたしは違う道を走られるともうさっぱり分からなくなって、何度も降り損ねて、無駄な道を歩かされる。。。しかも迷う。。。
ブエノスアイレスの町は、碁盤の目とは程遠い、斜めに走る道でつながれている。。。こんなに迷う町は初めてだ。わたしは決して方向音痴ではないので、どんな町も最初に歩き倒して、覚えてしまう。あとは方向だけを頼りにどこへでも歩いてゆく。。。
けれどここではもう3ヵ月になるというのに、いまだに道に迷う。。。もうこのわたしが正反対を向いて歩くなんてことはブエノスアイレス以外では考えられない。
ホントに迷宮のような町並みなのだ。

ついでにもうひとつ言っておくと、糞バスの運転手はなんとバス停の名前をよく知らない。。。うそんっ!?
でもホントだ。もちろん、大半のバス停の名前は彼らだって知っているけれど、乗客たちもみんな下車予定を縦もしくは横の通りの名前で告げるので、運転手は大きな通りにある小さな公園の名前のついたバス停を告げても、"それどこ??"って感じだったりする。
わたしのアパートの近く、Cordoba通りには小さな公園があって、その前のバス停の名前はPlaza Mons Miguel de Andreaというのだが、そんな名前を告げても大半の運転手は首をかしげる。Jaurez Jeanという公園の脇を通る道の名を告げると、"ああ分かった"という顔をする。おいおいっ、バス停の名前くらい憶えとけよ!!

さらにはバスの経路自体が比較的よく変わるらしい。インターネット上には、ブエノスアイレス市が運営する道路行程Mapがあって、バスの経路などを教えてくれるのだが、わたしのアパートと職場を結ぶ路線の経路はもうまったく変わっていて、最初は朝からとんでもないところへ連れていかれてしまった。。。
市の公式ページにはいまだに反映されていない。役に立たない。。。

ブエノスアイレスというのは、確かに南米最大の都市だが、決して南米最大のモダンな都市ではない。寧ろ、とても古臭い大都市だ。都市のモダンさならLimaの方が遥かに上だ。Buenos Airesに比べたら、Medellin(Colombia)やSantiagoの方がモダンさでは上かも知れないくらいだ。

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お久しぶりの近況報告。仕事してます♪ [Argentina 2017]

そんな訳で、Buenos Airesでやっと働き始めました。
ああ、しんど。。。いや、仕事は拍子抜けするくらいラクなんです。
暇過ぎてどうしていいか分からないくらい。わははははははははははは
それでもしんどいのは、ひとつは上に書いたように退屈な仕事でヒマを持て余しているから、もうひとつは半年近くも仕事してなかった所為。。。わははははははははははははははははははははは
そりゃあ、久しぶりの仕事はなんかしんどい。へへへっ

でも実際のところ、給料泥棒ではないかと思えるくらいラクな仕事。。。ラク過ぎ。。。
仕事ないやん。。。ええのんか??

その1."教える"ことが仕事なのだが、わたしがメインで教えるのはシェフ候補の女性ひとりだけ。。。寿司場はキッチンを終えてから取り掛かることになっている。
だが、もちろん、彼女は通常の厨房の仕事をこなして働いている訳で、講習をしている訳ではないから、それほどの時間はない。
しかもアレコレ一度に変えたくないというゼネラルマネジャーの方針で、教えるのは少しずつレシピを変えながら、お客さんの反応を見ながら??という中途半端な形。。。意外にも日系人の側からの抵抗! びっくり! わはは
90%がいちげんさんの観光客なのに、残りのたったの10%の顧客さんに遠慮して、レシピを急激に変えたくないというのだ。
なんか過去にトラウマでもあるのか、"ホンモノ志向にしてもお客さんが好きじゃなかったりするから..."と日本風レシピより変なオリジナルレシピに愛着がある様子。
そんな訳で、一日1つか、2つの試作をして終わり。けれど肝心のゼネラルマネジャーがいたり、いなかったりで、わたしが試作したものを大して試食できてない。なんのこっちゃ??
それにレシピを教えたいが、ここでもちゃんとしたグラム対応の秤がないので、購入してくれるまでどうしようもない。
目分量というやつは本物の味を知らない人たち相手に通用しない。ともかく、いろんなソースを作って味見させてみるが、ゼネラルマネージャーはいつも不在がち。或いはミーティングばかり??

その2.レストランが忙しいのは週末。
だが"教える"ことがメインのわたしは週末に休みを与えられている。わたしの勤務は平日5日間のうち4日間のみ。
お客さんはいつもいるけれど、それでも大した仕事量じゃない。そもそも料理が異常に簡単。。。調理という調理はない。
忙しくて対応できないというのを理由に(全然大したことないのに)、フライもののパン粉も事前につけて置いてあるのでベチャベチャ。。。野菜も事前にわざわざ真空パック調理。。。そんなもん歯ごたえなんてゼロ。それをレンジでチンして、さらにフライパンで味付けして。。。
問題はそういう間違った仕込み。。。意味もない仕込みに大半の時間を費やしているのだが、ギョーザも春巻きも、豚肉の八幡巻風も、とんでもないレシピなのだが変えたくない様子。。。その理由は不明。あれだけ本格的な日本庭園の中にあるレストランなのに。。。いいのか??わはは

その3.笑える話。。。
ここ私企業ではなく、日本アルゼンチン財団経営。。。ということで利益管理もゆるい。。。仕事もぬるい。。。
早番は朝10時に出勤。11時までちょっとばかり準備したら、12時のオープンまで交代で朝食タイム!!20分というが、いい加減なもんだ。ダラダラ休憩してる。。。
で、12時にレストランがオープンして、4時になると今度は遅番の連中が出勤してくる。
しかも午後4時から6時は喫茶タイムということで、食事提供はサンドイッチとデザートのみ。。。全員が出勤している時間帯なのに、だ。
そうなるともう仕事はないも同然。午後4時から一応交代で30分の昼食タイム。
けれど5時になっても、遅番の連中が6時以降の準備をする傍らで、サンドイッチの注文を待つのみ。。。そんなもん一人でできる。
という訳で4時以降、ほとんど仕事なし。
すなわち早番は10時から6時までの8時間勤務だが、2時間半くらい仕事せず休憩してる。わはははははははははは
遅番は4時から12時までだが、実際4時から6時くらいまでタラタラ準備して、6時から交代で食事タイム。。。
でお客さんはどうせ夜9時か、10時頃にしか来ないので、それまで同じように2時間以上もうダラダラ。。。
早番・遅番2交代で、営業時間が朝12時から夜12時までの12時間というのはもうどうしようもない。いやでもせめて朝9時に出勤させるしかないのが普通だが、それもしたくないらしい。。。わはは


とにかくぬるい。。。ゆるい。。。そんなぬるま湯にみんな慣れ過ぎていて、それを変えるのは難しいが、そもそも今回はわたしの仕事はそんなことではないようなので、気にしないことにする。わはははははははははははははははは
そんなこと誰も望んじゃいないし、財団としては評判さえ悪くなければ儲かろうが多少の赤字だろうが、庭園の入園料で賄えるなら、どんな問題もない。
予算が決められているんだろうな。その中でやりくりすることが肝心で、収益を上げるなんてことは多分、二の次なんだと思う。

まあ、そんなことんなでわたしは暇すぎ。。。こんなラクな仕事人生で初めて。

多分、わたしを恒久的に雇う気はない模様。半年から1年くらいで考えてるんじゃないかな?
もちろん、様子を見ながらということだと思うけれど。
それは以前にも書いたように、わたしにとっては好都合♪
そういう仕事スタイルがわたし向き♪ わははははははははははははは


ちなみにスタッフはホントにやりやすい。もちろん、頑固な奴もいるけれど、頑固な奴は寧ろ、下っ端なので、特に今は気にする必要もなさそう。
寿司場もみんな寿司経験がほとんどないことを気にしている連中なので、珍しいことに素直に意見に従ってくれる様子。
そういう意味ではゼネラルマネージャーとの調整が最大の難関だが、今回の仕事内容的には、教えるだけ教えて、彼らがそれを採用しようとすまいとわたしの知ったこっちゃないって感じっぽいから、様子見ながら対応します。

しかし原価意識もなく、売上げや利益管理もざるで、ともかく人件費とのにらみ合いだけが仕事みたい。。。
わたし的な問題は厨房のフライパンがボロボロ過ぎること。みんな凹んでるよ。。。タッパーウェアも全然足らないし、秤もなければ、計量カップもない。
それ買ってよ、お願い♪ わはは

来週は間違ったフライものを改善しよう。1週間でそれだけ?? わはははははははははははははははははははははは

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Otro Mundo ... ふたつの世界とふたつの人生 [Argentina 2017]

今回はラテンアメリカ的観点からみた日本の人生の1シーンについて考えてみたい。



さて、自分と家族や友人たちが何よりも楽しく幸せであることを第一義として掲げる社会、それがラテンアメリカだ。
そこでは、自分たちが幸せである為に働く...なんて概念もちょっとニュアンスが変わってくる。
自分たちが幸せであることが本当に第一義なので、その為に犠牲を払うって感覚はない。
家庭の幸せが一番で、ただ家計的にそれを支える為だけに仕事は存在する、そんな感じだ。

翻って日本人は自分たちが幸せになる為に働く、となる。
"幸せになる"だ。"幸せである"とはちょっと違う。このニュアンスの差は大きい。
そして"なる"為に、必死で努力する。。。今度は"必死で"だ。
しかも"幸せになる"には明確な終点がない。どこまででも、より幸せを目指せるだろうから、どこまでも追い続けるだろうからだ。
自分たちが幸せになる為に必死で働き、働き続ける為には企業の業績拡大と安定を最重要と考え、支え続ける。
いつの間にか、企業の為に働き、働く為に家庭にシワ寄せがゆく。。。知らぬ間に逆転してしまっているが社会そのものが同じ勘違いをしてしまっているのでそれに気づかないし、それをやめられない。
"でも仕方ないじゃないか、企業が儲かって、収入が増加し、安定し、家庭が裕福になり、いい教育が受けられ、美味しいものが食べられ、きれいなモノが着れて、楽しい旅行ができるようになるんじゃないかっ"と考える。
本来の目的が最終的に犠牲になってしまうのに、消費に幸せを見出して満足するようになる。それしか方法がない。
まるで厳しい肉体労働に明け暮れて疲れ切り、そうやって稼いだお金を、休日の全身マッサージでほぐすことに費やしているのに、それを幸せだと感じるようなものだ。
もはや消費でしか幸せを感じない。。。
消費に基づかない幸せを感じる瞬間など人生でほんの数えるくらいの瞬間しかないし、せっかくのその瞬間も可能なら消費で飾りたがる。
もはや消費と幸せは二律背反、背中合わせでふたつに引き裂くことはできないかのようだ。

ラテンアメリカでは、彼らはとかく楽しく働くことを目的にする。
楽しくないなら他を探す。もちろん、収入はいいに越したことはないが、残念なことにどこで何の仕事をしても収入は同じか、ほぼ変わらない。
だから彼らにとっては仕事は楽しいか楽しくないか、あとはチップ収入があるなら、それ次第だ。
ともかくも楽しくない仕事なら、せめて職場環境は楽しくしようとする。
まあ、お喋りがほぼ唯一の手段だが。わはは

一方、日本では収入1番、2番は遣り甲斐ってやつだ。
遣り甲斐ってのは、もうすでに必死になって働くことが前提になっている。わはは
3番手に現在の収入だけではなく、将来の収入(昇給、昇進)が加わるかも知れない。
4番手にまたもや企業の安定性・長期性だろうな。収入が思うようでなくても、これと言って遣り甲斐というものがなくても、企業が安定した業績で、長期的に(望めば)定年まで働けそうかどうか、だ。
5番目くらいにやっと残業や休日の取得状況などが入ってくるかも知れない。
6番目は福利厚生??まあ、社会保険などの充実まで含めると4番目くらいに位置してもおかしくはないか?
いずれにせよ、2番めの犠牲以外は、ほとんどが金銭に換算可能な項目だと言っていいだろう。
仕事や職場の楽しさは、それを求めることさえ不謹慎だという人もいるし、一生懸命やって成果が出ればどんな仕事だって楽しくなるという人たちだっている。もうラテンアメリカとは正反対だと言っていいだろう。

もちろん、ラテンアメリカの最大の環境要因は、昇給や昇進という制度がほとんどの職場においてない、ということ。
そしてどの職場でも給与に差はほとんどないということも、だ。
そもそも企業に就職する人が限定されている。
企業らしき企業に就職できる人は、大卒に限られている。しかもハッキリ言えば、入社はコネ次第だ。
コネがなければ入社できないと言っても過言ではないだろう。
大学の進学率は南米の大都市を除いてはお話にもならない。
そもそも大都市にしか大学がないというケースも少なくないし、子供を大学に入れる為にアパートを借りてやっれるだけの余裕のある家庭はとても少ない。大学進学はほぼほぼ富裕層から中間層上部に限られてくる。一般の人々は大学に進学しない=できないし、卒業したところで、そういうコネのない人々は企業には就職できないから、それだけのメリットはない。(※公立の大学自体は無料というところが多い)
だからそれよりは1年から2年くらいの専門課程だけを修了して、なんとか企業の片隅や中規模商店の事務職、ネット関係の技術者や車などメカニックの技術者、或いはコックなどを目指す。あとは歯科医だ。歯科医がとてつもなく多いのはそれが専門課程化されているからだと思う。
そして最低賃金よりちょっとだけマシな(1.5倍くらいの)給与を得る。けれどそこから先はもう昇給も昇進もないと考えた方がいい。
そんな中で楽しさを求めるのは仕方がないし、それしかない。

その点、日本人にはまだ"幻想"がある。要はそれがいいことなのか悪いことなのか、だ。
敢えて"幻想"と書いたのは、もちろん、人によりけりだからだ。公平に機会がある訳ではない。
或る人はチャンスをどんどんモノにしてゆくが、そんな風に事を運べない人もたくさんいる。彼らには"幻想"は或る意味ではとても残酷な結果を齎す。
本人的には同じように必死になって一生懸命働き、家庭や個人を犠牲にして生活しているにも関わらず、昇給も昇進もなく、それどころか、しばしば失職し、収入は不安定となり、さまざまな出来事が悪循環となって襲い掛かる。。。ひょっとしたら彼には最初から程よい環境で、自らと家族の幸せだけを守り続けてゆく人生が相応しかったのではないか、というケースだ。こういうケースは実はそれほど少なくないと思われる。一緒になって競争しなくたって良かったのに、得意分野でもないのに、競争し、敗北を重ね、自信を喪失するばかりか、他者からの評価を下げ、卑屈になり、失職し。。。という悪循環に陥ったりするケースだ。

そう何も彼の能力の低さをあげつらっている訳ではない。人にはそれぞれ得意分野というものがある。
それぞれの得意分野なら他者の多く(平均的他者)よりはいいスコアを出せるのに、社会環境は得意分野に彼を導かないこともたくさんある。

或いは、得意とする分野によっては次のようなことも起こる、
 彼は絵が得意だ。平均的他者よりも明らかに巧い。けれど天才的な巧さかある訳ではないし、いずれかの絵の分野でプロとして活躍する人々と比べるとそれほどでもなかったりする。。。これはちょっと困った事態を引き起こす可能性がある。。。プロとして画力一本で勝負するような土壌に立つのはかなりの賭けになってしまうからだ。経済的余裕があったり、もう他に何もできないといったタイプなら、或いはとてつもない情熱がそこにあるタイプなら後先考えずにその道に進むことが出来るかも知れない。けれど、経済的余裕に恵まれなかったり、周囲の理解がなかったり、そこまでの情熱がなかったり、或いはいろいろバイトな生活経験や就職試験もなんとかパスできる程度の器用さを持ち合わせていたりしたら、やっぱり普通に一般企業に就職してしまう方が無難に思えるだろう。
だがその結果、得意でもない営業部門なんかで他者と競争するハメに陥ってしまうってケースだ。得意分野にそれほどのマーケット・チャンスがないというやつだ。そんなことはたくさんあるだろう。平均的他者と比べてかなり足は速い、運動神経はいい、力は強い、けれどプロになるほどの成績ではない。楽器演奏や歌唱でもそうだ。どんなに絵がうまくても、漫画やデザインならマーケットがあるけれど、芸術ならマーケットは極めて小さい。音楽でも同じだ。クラシックのマーケットなどないにも等しい。なんなら学業成績でもいい。平均的学力のかなり上をゆくのだけれど、研究職や学者になるほどではない。外国語が得意なのだけれど、それ以外は人づきあいや要領も含めて今一つ。。。そんな分かりやすく言うと、実務的でない能力が平均的他者よりかなり上であっても、社会は彼らになかなか微笑まない。。。
いや、もちろん、チャンスはゼロではない。けれど現実問題よほどの運がいる。。。

 そんな得意分野があるより、いっそ笑顔がいいとか、お喋りがうまいとか、度胸が据わっていて物怖じしないとか、他者から好感を持たれやすい容姿とか、勉強ができる訳ではないけれど、ちょっと頭の回転が速いとか、そんな得意分野とも呼べないような特技(キャラクターだ)のある方が実は企業勤めには向いていたりする。。。そういう能力をふたつ、三つ持ち合わせていたりしたら、もうそれっぽっちで出世したりする。。。かなり不公平だ。
だから日本にはラテンアメリカと違って、収入を伸ばしたり、出世したりするチャンスはいくらでもあるように見えるけれど、実際、そういうものに無縁な人たちもたくさん存在するということだ。彼らにとっては、そういうチャンスや社会そのものは、実のところ"幻想"でしかない。なにをやってもうまく行かないように思えるだろう。不公平だ。平均的他者より余程、明確な得意分野や特技があるのに、社会のレースに参加してもなかなか評価されない。
 
 実際、サラリーマンとして求められる能力なんて、たかが痴れている。

笑顔がとびきりいい。
お喋りがうまくて、面白い。
度胸が据わっていて物怖じしない。
他者から好感を持たれやすい容姿。
学力に関わらず、頭の回転が速い。
手先が器用で、仕事が早くて大きなミスがない。
なんでもトライしてみて、あとはフツー程度に努力を続けられる。
たまたま上司に好かれる業務外の要素がある。
とにかく人をまとめるのが巧い。
ともかくいろんなアイデアを発想する。
目に見える努力をする。

...そんな程度だ。わははははははははははははははははは

バカげてる。実際、仕事ができるできないに、学歴なんぞ関係ない。学歴はスタート地点でアドバンテージをもらうのに役に立つくらいだ。しかも余程の学歴でないとただの大卒では学歴と呼ぶほどには通用しない。学業成績もさほど意味はない。数学が多少苦手でも普通の営業職なら電卓さえ使えればバカでない限り問題ない。英語が出来なくても普通の企業なら問題ない。歴史が苦手でもそんなもの普通は何の問題もない。化学や物理なんてその道に進む人たち以外は一般職の企業勤めには必要なかったりする。どうせ60%以上のサラリーマンは営業職だ。仕事の中身なんぞたかが痴れている。
もちろん、ありていに言って、バカと怠け者は困る。。。平均を遥かに下回る奴は困ったもんだ。。。
自分が入社した会社で平均を下回っていると感じたら、さっさと辞めて、他のもう少しレベルの低い企業に転職することだ。もちろん、大抵の場合、収入も下がるかも知れないが、そこで平均以上のポジションを確保できるなら、それが勝利の法則というやつだ。わははははははは
企業や集団のレベルが低ければ低いほど、彼は勝者のポジションを確立できるという単純な話だ。
けれど大半の人たちはそういう道を選ばない。。。負け犬でもいいから少しでも大きな企業(自分にとってレベルの高そうな企業)に居残ろうとする。。。そしていずれ辞めざるを得なくなる。。。



そんな訳で、ラテンアメリカと日本では社会環境も異なるし、人々の性格や生き方もまったく異なる。
日本の方がずっと恵まれた社会だという人は多いだろうが、実際、後半でみてきたように、社会が恵まれているというのは多くの人々にとって"幻想"だ。
多くの人々にとっては、そんな"幻想"が却って彼らの人生を歪めて、悪循環に陥らせている。いっそのこと、そんな"幻想"などない方がいいくらいに、だ。
すべての人々に平等にチャンスがやってくる訳ではない。能力の如何でもない。ただの運でもない。
そもそも日本という社会が求める人物像には幅がないということだ。教育現場が幅のある人物を提供しない所為もあるだろう。
もっと言えば、日本のサラリーマン社会は本当に能力など求めていない。大半は営業オンリーだ。学歴も特別な能力も必要としていない。
日本の社会は能力のある人々の活かし方を知らないということだ。IT業界など多くの、或る特定の能力を必要とする分野では、どの業種も個人事業に支えられているに過ぎない。(※組織は法人であっても多くは個人事業の範囲を出るものではない)

 思うに、別に無理に学歴社会の体裁を整えなくたって構わないじゃないか、碌でもない三流大学など、どんな意味もない。
もっと実力ある人々をきちんと社会に送り出すべきだ。
子供たちに学業成績以外の人生を生き抜く上で大切なことなど一切教えやしない。個に合わせた指導など何処にもない。
学校教育は画一的で、表面的(記憶偏重)知識だけで、それ以外は何も教えない。
そもそも思想・哲学すなわち考える力を養う教育が完全に抜け落ちている所為で、子供たちに自分自身で考える力がない。
子供たちには自分自身でどうやって生き方を見つけるかという視点と思考が欠けているのだ。
そもそも子供たちには社会に出る前にそういうことを考える時間がない。なのに進路を決めなければならないのだ。いったいどうやって!?
もっと子供たちに生きる力を与えてやるべきだ。生きる力とは技術ではなく、自分自身で考える力だ。

たとえば学業成績の如何に関わらず、広範囲の多様性のある分野で、能力のある人を育成し、社会が受け入れ態勢を整えるという必要性だ。
芸術関係への公的支援、私的支援(税の控除とかいろいろ方法はある)の拡大もそうだし、手先が器用で工芸など様々なモノ造りに向いている人たちが何処へ進めばいいのかを手引きしてくれるような環境はほとんどない。土地を持たないけれど、自然を愛する子供たちが農業や牧畜などに携わる道はほとんどない。プロフィールドの整備されていない分野のアマチュア・スポーツ選手が生計を建ててゆくことの困難さもそうだ。ベストセラー小説以外、詩人も、歴史や政治・経済などの専門家たちも副業をしない限り、飯なんて食えやしない。調理師学校だって本人の確固たる自覚がなければ学校として手引きするような環境はほとんどないし、学業はイマイチで愛想も悪いけれど、美味しい食べ物に凄く興味があって、しかも手先も器用って子を、三流大学やサラリーマン社会に送り込んでみても仕方ない。子=個の多様な可能性を探り、もっと社会そのものの裾野を広げてゆくべきなのだ。そしてそういう分野に対するいろんな形の支援策があっていいと思うのだ。

たとえば、言うまでもなく日本ほど伝統文化や伝統的手工芸が多種多様な幅をもっている国は滅多にないだろう。(※それこそ本来は愛国者を名乗る人たちが支えるべき分野・行動じゃないのか!?皮肉。)けれど、その多種多様な伝統文化・伝統工芸は、ほんの一握りの人々によって、もう数名単位のほんの一握りの人々によって細々と継がれ続けているに過ぎない。そこへ送り込める人材はいくらでもいるはずだ。先にも書いたように、学業はイマイチでも、笑顔も愛想も、うまく喋ることもできないけれど、アイデアマンでもなく度胸もないけれど、そういうことに取り組める人材はいくらでもいるはずだ。大半の子供たちをサラリーマン社会に送り出すことを目標とし、一部のプロスポーツマン以外は、全体からみればほんの一部に過ぎない医療関係者、司法関係者、あとは教育関係者ばかりを目指させる教育現場の異常さだ。(スポーツ選手に一切勉強させないという無責任な教育体制も反省されるべきだが。)
現にないものを作り出せと言っている訳ではない。現にあり必要とする場があるのにそれを繋がないという教育現場の多様性の欠如、個への無視・軽視だ。個を顧みない教育などビデオ教育となんら変わりがないではないか。もちろん、伝統文化を守る人々への子弟育成の為の助成金も同時進行的に取り組まれねばならない。

いや、なにもラテンアメリカの教育が素晴らしいなんて言うつもりはない。ラテンアメリカの初等教育では放任主義がまかり通っている。勉強したい子は勉強するし、したくない子はしない。個性も矯正したりしない。野放図だ。義務教育の範囲では緩い社会経験、集団経験をさせるだけだ。勉強はしたい子、できる子だけ率先してやるだけだ。だから全体としての平均レベルなど上がりようがない。
けれど例えば、大学レベルの若者たちを見てみると、やはりみんな勉強したくて大学へ来ているし、勉強している。正規のコース以外にも勉強したいからと、授業を選択する学生たちも多い。もう日本とはまったく違う。勉強したくない奴は大学になんぞ入学していないのだ。
かつてレストランKabukiでバイトしていた女の子Valentinaは、4年制大学の法学部で学びながら、趣味で4年制の調理師学校へ毎日ダブルで通っている。彼女は母親が弁護士でそっち方面の仕事に就く予定で、まったく調理を仕事にする気はない。けれど興味があって、ホントにただの趣味で大学の傍ら、4年制の調理師学校へ毎日通っているのだ。他にも心理学の専門でありながらそれと無関係な日本語クラスを選択したCarlosのような例とか、いくらでもそういう趣味的範囲で必要のない受講クラスを取っている学生たちはたくさんいる。
よく日本では中高生の学力の世界各国レベルなんてのが話題になるけれど、もし大学生の部門があるなら、間違いなくダントツで日本は最下位だろう。
世界には勉強もしたくないのに、大学へゆく学生などほとんどいないのだ。みんな勉強したくて、ちゃんと勉強の必要性を感じて、大学へ進学するからだ。

未だによく分からないのは、日本人の若者たちは本当に勉強するのが嫌いで、大学へゆくのも嫌いで、バイトばかりしている。
けれどバイト先では、本当によく働き、必要なことはどんどん吸収して、生き生きとして働く。情熱をもってバイトに励むと言ってもいいくらいだろう。
不思議だ。。。(※もっともわたしの知っている世代までであり、ここ10年の若者たちのことはまったく分からないのだけれど。)
その情熱が学業に生かされることはほとんどない。極めて少数だ。
大半の若者たちは、人生の目的も将来の人生設計も考えず、なんとかかんとか二流、三流大学へ入学する。
だが入学したら最低限の受講に留めて、ひたすらバイトに励む。
そして青春を謳歌する?? (※まあ、人それぞれだ。)

 ひとつは恐らく義務だ。。。何度も書いているが、日本社会は"してはならないことと、しなければならないことの海に首まで浸かっている"。人々はもう義務にはうんざり辟易としているのだ。義務として掲げられた瞬間、人々は疲れを覚え、やる気をなくし、イライラを募らせるのだ。しかも次にあるのは入試と異なり、卒業というかなり低いハードルだけだ。高校入試から大学受験までの過程で疲れ果てた学生たちはもう学習する意欲など覚えたりしないのだろう。
 もうひとつは、やはり目的がないからだろう。目的のない学習だ。別にこれからの自分の人生となんの関係もない学習。。。ラテンアメリカの学生たちとの間にある大きな差だ。明確な人生設計が何もない中で、たまたま入学のできた大学のたまたま倍率が低そうだったから選んだ学部で、いったい何を学ぶことがあるだろう。そういうふたつの要素が恐らくは日本の学生たちを大学から遠ざけるのだ。

本当に、したいこと(人生設計)があって、大学の専門課程をきちんと選んだ学生なんてごく限られているからだ。
ともかく進学する。。。それだけで彼らは大学へ進学した訳だ。
通学や学費の許す限りの範囲で、とにかく何処でもいいから、どこか入学できる大学に、学部なんてみう消去法で、彼らは進学するしかなかったのだ。
何故なら学校教育がそう求めたからだ。彼らの所為ばかりではない。(※彼らに責任がないとも言わないが)
彼らには自分自身を見つめ、自分の人生を考える為の時間も、その為の方法や必要な知識も与えられなかったからだ。
そういうことの重大性を問われなかったからだ。
寧ろ、"そんなこと考えている暇があったら、英単語のひとつでも覚えろ"などと言われ続けてきたからだ。
だから彼らの大半は大学3回生を迎えて、卒業単位と睨めっこしながら、慌てて就職先について考え始めるのだ。
人生設計ではない。ただの就職先について初めて考え始めるのだ。
だがそこでも、就職先は大体の分野で、しかも複数の余地と幅をもって取り敢えず選択される。
企業ではなく、第一希望業種~第三希望業種なんて言ったら、もう実はなんにも決めてないのと同じだ。わははははははははは
もちろん、中には企業ベースで第一希望~第三希望まで絞り込む学生もいるだろう。けれどそれは圧倒的少数派を出ないということだ。
その結果、やはり大半の学生たちは、"入れるところに"入社する。
そこには人生に於けるとても重大な決心をしたという自覚すらないだろう。

まったくおかしな話じゃないか、人生について考える前に、人生の選択をしろと要求される訳だ。
人生についてなんぞ考えるな、今はとにかく教わることを記憶しろ。とにかくオマエたちの頭の中に詰め込めるだけ詰め込んで、どこでもいいから入学できそうな大学と学部を探して入学しろ、と。だとしたら、16才からの7年間のいったいなんと無駄に過ごされることか。。。
下手すると無駄な上に間違った選択をさせられる訳だ。
自分自身にまったく相応しくない、得意でもない、望みもしないレールに乗せられてしまう訳だ。


振り出しに戻って、ラテンアメリカの連中の人生のなんて単純なことか!
シンプルだ。
ややこしい物語はどこにもない。
勉強したい奴は勉強し、そうでない奴は勉強せずに好きなことをして育つ。
問題は貧しさと家庭環境因子がそこに大きく働いているということだ。
だがともかくも彼らはそれなりに自分らしく生きる。
他に方法を知らないので、自分らしくというか、自分にできることで生きてゆくしかない。
したいことがあればそれをする。あとは貧しさとの闘いだ。
時に貧しさは彼を押し潰す。
間違ってもラテンアメリカは楽園なんかじゃない。
けれどともかくもシンプルなのだ。ラテンアメリカの人生はとてもシンプルだ。
頭の中だってシンプルだ。接しているこっちもシンプルで済む。
それが魅力でもあるし、この社会が成熟してゆかない原因でもある。
勉強したい奴は大学に入っても真剣に勉強するし、大学をふたつ卒業する人間も珍しくない。
30才を過ぎてからふたつ目の学位を目指すYancyみたいな連中もたくさんいる。
もちろん、まったく公平な社会ではない。
そもそも各自のスタートとなる貧しさと家庭環境因子に雲泥の差があるからだ。
大半の連中は驚くほど愚かだ。なにも知りやしない。。。
けれど振り返って、日本だって愚かさでは負けてはいないじゃないかっ。

もっともラテンアメリカ人らしいラテンアメリカであるコロンビア人たちは、幸福の自覚度では自己評価世界第一位だったということについてblogを書いたことがある。

彼らの人生が我々日本人の基準からして幸福かどうかは知らないけれど、彼らがそれぞれの人生を幸福であると感じるとしたら、環境的には豊かな社会に暮らしながらも、自分が幸せではないと感じている日本人の方が哀れな存在じゃないかと思う訳だ。


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非寛容はどこから来るのか? [Argentina 2017]

そんな訳で昨日の続きなのだが。。。
昨日の続きだが、昨日分のblogを読んでなくても何の問題もない。わはははははははははははははははは
テーマがまったく異なるからだ。(それでも続き??笑)
しかも書き足しているうちに、どんどん何書いてるか分からんようになってきた。
書きながら考えるから、テーマは無限に広がるよ。わははははははははははははははははははははははは


さて、ここからは日本を顧みてみよう...

非寛容、だ。

非寛容はどこから来るのだろうか?
異なる意見を認めない社会。。。

社会は、もちろん、個人の総体としてある。
自分の権利と自由もほどほどに差し控える代わりに、他者の権利と自由についても自重することを求める文化。
忍耐や忍従を美学とする文化。
滅私奉公を美学とする全体主義的伝統文化。
自己主張を控え、和=輪(総体)を重視する教育。
権利や自由より義務を高々と掲げる教育。
してはならないことと、しなければならないことで息ができないくらい顎下まで浸かっている人々。。。
競争心はひた隠しにして横並びを演出する社会。
謙遜の美徳。。。
我々日本人はそういう文化社会の中で生きる。。。

そのすべてだ。。。それらのすべてが非寛容へと繋がっている。

だがこの国にも寛容さ=優しさはあったはずだ。それらは何処へ消えてしまったのか?

かつてこの国が寛容さを見せていたのは、危ういバランスの上だったのか!?
慎ましやかさを美徳とする社会で、全体主義=滅私奉公という正義が姿を現した瞬間にそのバランスは脆くも崩れ去るものだったのか!?
ああ、そうなのかも知れない。。。
そういう意味では戦前から戦後の社会も一挙に全体主義へと傾いたのは故なきことではないかも知れない。
古くは武家社会の頃から滅私奉公はそういう危険性を垣間見せてきた訳だ。
滅私であるが故に、個人の私利私欲ではないが故に、それはより激越なものと化すのか!?
私利私欲ではなく、滅私奉公であるとするならば、それ自体がまるで正当性を付与するかのように感じるのかも知れない。
それが自己主張を遠ざけてきた社会・文化の特異な捌け口とその形態なのか!?

そうだ、滅私は気持ちいいのだ。
私利私欲を捨ててお国の為にと考え、それを潔しとしない連中を罵り、断罪するのはとても安全で心地よい行為に感じられることだろう。
それは日本固有の伝統的文化(価値観)と相反しない思考形式なのだ、きっと。。。

※"滅私奉公"の意味 ... 私利私欲を捨てて、主人や公のために忠誠を尽くすこと。▽「滅私」は私利私欲を捨てること。「奉公」は国や社会などの公、または、主人や主君・上位の者などに自分の身をささげて尽くすこと。

最大の問題は、そのお国の歩みの正否が、適・不適が顧みられないことにある。
そこでは批判が封じられるからだ。批判が封じられる以上(自らそれを封じるのだ)、お国の適・不適が彼らによって判断されることはない。
愛国心とやらは、一切の政府批判を封じる。。。
愛国心がそれを命ずるのだ。
第一義は国の名誉と国威、発展なのだ。
それが叶いそうにみえるなら、もはや二の句は存在してはならないのだ。
完璧なサイクル・システムだ。
"そんなことしてたら犠牲を払わされるのは自分自身だよ"と諭してみても意味はない。なにしろ犠牲を払うことを美徳としている訳だから。
どんな言葉にも耳を傾けることはないだろう。。。敗北以外。。。

ああ、なんてこった!

滅私奉公は気持ちいい。。。自分が尊いことをしている気持ちになる。
エゴを捨てて、私利私欲を捨てて、全体の為に一丸となって邁進するイメージだ。
独りじゃないって感じられるのだろう。
みんなと一緒に、一丸となって、国を守る為に、自らを犠牲にするのだ。。。それは英雄的行為=英雄的犠牲に見える。
正しいに決まっている。。。なんてったってエゴを捨てているのだから。。。
エゴを捨てているのに、間違ってるなんてことがあるだろうか!。。。落とし穴だ。。。

"我々主義という拡大されたエゴイズム"(プリーモ・レーヴィ)の落とし穴だ。



さて、非寛容が日本の精神だなんて言うつもりはまったくない。
いくら日本嫌いのわたしでもそんなことは言わないから安心してくれ。わはは
それは影の部分なのだ。。。或いは裏表だと言ってもいい。
個人として主張は控える代わりに、集団としてのアイデンティティ(ルール)は嵩にきせてモノを言うという裏表だ。それは個人より集団を上に掲げる文化の中に存在する訳だ。

日本の伝統的文化・社会の中にある全体主義的価値観の影に、ナショナリズムと共に非寛容はひっそりと棲息していたのだ。
ナショナリズムさえ表に出て来なければ、それはずっと隠されてあったはずだ。

だから戦後日本の非ナショナリズム教育はそういう安全弁の役割を果たしてきたのかも知れない。
もちろん、それがベストだった訳ではないだろう。
他に方法はあったはずだ。けれど戦後の日本の教育はただひたすらノンポリ化を推し進めてきた。
特に68年世代の反省を以て、それ以降の教育現場において、非政治化=非思想化教育は完成されたと言っていい。
それは間違った方法だったろう。
伝統日本文化の"脱全体主義化"を図るべきだったのかも知れない。

自虐史観だという連中がいる。。。
戦後の教育は自虐史観に基づくもので国民を劣等感と罪悪感の中においてきたというのだが。。。
戦後の西ドイツと違って、百歩譲って、日本は自国内で自虐史観を教えてきたとしても、それは国内部だけで、対外的に正式に謝罪し補償して来なかった。
一度でも正式に対外的に、全世界へ向けて日本の犯した過ちを謝罪し補償していたならば、それで片付いたはずのものを、2ヶ国間交渉にこだわり、ひっそりと謝罪し、非公式に他の名目で補償交渉を行ってきた。それが故にいつまで経っても蒸し返されるハメに陥っているにも関わらず、昨年末、再び同じことを繰り返した。
国際社会を目撃者にして味方につけるべきところを、過去と同じ轍を踏んだのだ。



もう一度、冒頭に戻ろう。

自分の権利と自由もほどほどに差し控える代わりに、他者の権利と自由についても自重することを求める文化。
忍耐や忍従を美学とする文化。
滅私奉公を美学とする全体主義的伝統文化。
自己主張を控え、和=輪(総体)を重視する教育。
権利や自由より義務を高々と掲げる教育。
してはならないことと、しなければならないことで息ができないくらい顎下まで浸かっている人々。。。
競争心はひた隠しにして横並びを演出する社会。
謙遜の美徳。。。
我々日本人はそういう文化社会の中で生きてきた。。。

本音と建て前ってやつが横行する社会だ。
異なる意見を強く主張しない社会だ。
全体に(多数派に)異を唱える奴を面倒臭く感じる社会だ。
権威にしつこく盾突く輩が面倒臭く、疎ましがられる社会。
礼儀という言葉の裏で、儀礼的振る舞いを暗によしとする社会だ。
また個人を大切にしない社会だとも言える。
個よりも家、家よりも会社。。。家庭より仕事、プライベートより仕事ってやつだ。

日本の伝統的文化・社会の中にある全体主義的価値観の影に、ナショナリズムと共に非寛容がひっそりと棲息することを許してきたのだ。
それは戦後日本の非ナショナリズム教育(ノンポリ化)によって安全弁を与えられていたに過ぎなかった。
そしてまさにノンポリ教育が完成するかに見えた90年代、それらはまるで反動であるかのように、だが予想に反してナショナリズムの側から異議が申し立てられ始めた。。。

その安全弁を外したのが、新しい歴史教科書を作る会であり、時を同じくして総理大臣に就任した小泉純一郎だったのだ。
戦後、日本の"脱全体主義化"は果たされず、単に"ノンポリ化"によって蓋をされていただけのナショナリズムは"新しい歴史教科書を作る会"、小泉の靖国神社参拝を巡る中国との対立、そして2002年のワールドカップ開催に向けた"スポーツナショナリズム"の高まりを媒体として、2001年にシャンパンのコルクのように高々と栓を抜かれてしまった。。。
そして2001年9月11日、米国同時テロによって全世界が反イスラームに傾き、米国のアフガニスタン空爆が開始されるや、米国国内のナショナリズムの高まりは、9.11に憤慨し、哀しみを共有する全世界の人々に対し、世紀の悪役ビン=ラディンの存在と共に、或る種のナショナリズム的ヒーロー像を提供した。小泉はブッシュの足元にキスして米国のアフガン侵攻を明確に支持し、10月にはテロ対策特別措置法を成立させ、さらに2003年イラク戦争が始まると、国内のナショナリズムの高まりに乗じて、イラク復興特別措置法を成立させる。そして退任直後には、"小泉劇場"の後をそのまま継いだ安倍晋三によって、12月に防衛庁が防衛省へ昇格、海外派遣を本来任務と規定する改正防衛省設置法"自衛隊法"が成立した。
 
日本のナショナリズムは2001年に長い戦後の眠りから覚め、再び日本社会に姿を現したのだ。
最初は少数派にみえたナショナリストたちは、折りからのインターネット上での"2ちゃんねる"と呼ばれる匿名の主に誹謗中傷ネタを得意とする掲示板サイトや続いて続々と登場することになる各種SNSによって、おたく限定から、一般ネットユーザーの社会現象に対するコメント参加を"匿名を基盤に"拡大・増殖することになった。
匿名参加という形は、とても気楽で無責任なネットコメント文化を確実に増長した。
匿名なら何でも発言できる。より注目を集めたければより過激な発言、より極端な発言をすればいいのだ。
叩かれれば、匿名を変えて素知らぬふりをすればいい(当初はそんなことも可能だったらしいが、いずれ脅迫事件などの頻発により発信者特定が可能になった)。
誰も話を聞いてくれる友人がいなくても、ネット上ならいくらでも発言できるし、耳目を集めることもできる。
よく知らない話だって、ネットなら口論と違って、いろいろ調べながら知ったかぶりで話を進めることができる。。。学歴・経歴や年齢、性別なんだって偽装できる。。。。。"叩き"や"荒らし"と言われる行為が日頃のうっぷん晴らしに持ってこいとなったのだろう。

そうやって、今日の非寛容文化もそろそろと表舞台に出てきた。

やがて政治に大して縁のなかったはずの若者たちが、偶然か?敵を見つけ出すことに成功した。。。
2009年、おたく地盤に微妙な人気のあった漫画好き首相、麻生太郎が議会を解散させると、誕生したのは民主党政権だった。。。

まあ、内部分裂もいいところ、烏合の衆の寄り合い所帯とでもいうべき民主党にあって、よりによって総裁となったのが、鳩山由紀夫だった。
宇宙人とも呼ばれた鳩山を叩くのは、実に簡単で面白かったろう。(麻生太郎だって叩き放題だったはずなのに、どうにも彼はおたく支持が強かったらしい)
もうネタだらけだったに違いない。
世間もまた民主党の自堕落さにすっかり辟易としていた。。。鳩山の辞任に続いて、2010年6月、菅直人が立った。
菅直人で民主党は少しは持ち直すかと期待した向きもあったようだが(内部分裂で意見などまとめようがないのに)、2011年3月東日本大震災が起こる。。。
この前代未聞の大惨事に対して、有効な手立てを次々と執れた政権はなかったろう。誰がやっても非難は免れなかったろうし、それに対応できる政治家など誰一人存在しないだろう。できれば誰だって避けたい運命の一瞬だ。
震災対応を巡って非難されるのは致し方ないだろうが、ネット住民はそんなこと知ったことではない。
鳩山以来の民主叩きはここに完成した。(もちろん、民主党なんぞそもそも期待する方が間違っているのだが)
もう野田なんぞ火消しと幕引きに登場したに過ぎなかった。

そして2012年12月、安倍晋三が再登場したのだ。。。
民主党叩きは、ナショナリズムと相俟って自民党支持層となった!! 
これがわたしには意外というか、俄かには信じられないことだった。
ネット住民たちが自民党を支持!?
ナショナリズムの隆盛は承知していたが、まさか堂々と政府与党の支持に回るなんてことは、実はわたしには想像できなかったのだ。

前回、なよなよと"美しい国ニッポン"などと標語を掲げて登場し、さっさと姿を消した坊ちゃん政治家は、今度は、なんとブッシュを真似る強硬派を気取ってみせた。なんとはなっからナショナリスト系ネット住民を意識して登場してきた!!
彼が国民から叩かれれば叩かれるだけ、今度はネット住民たちの中のナショナリストたちはより強固な安倍晋三親衛隊となった。。。
Unbelievable!!



でんでん!! 



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そんな訳で、ナショナリストたちはわたしが何を書こうが、どう叫ぼうが、絶対に耳を傾けることはない。
おまけにもはや彼らは圧倒的多数派となった。
心地よい安心感と共にあるだろう。
彼らはこの闘いに勝利したのだ。
わたしが頭を下げようと、泣こうと、わめこうと、彼らの耳には届かない。。。(そんなことしないけれど)
彼らが考えを変えることなどない。
敗北の日まで。。。


昔から書いてきたように、とっくに手遅れだったのだ。
そんなことは知っていたが、まさか彼らがここまで多数派を占めるとは予想できなかった。
政治家たちが勝手にやってしまうんだろうと思っていたが、国民の大半がそれを支持するとは思っていなかった。
とんだ見込み違いだった。
こんな見込み違いはホントにblogを書き始めて以来、初めてにして、最大かも知れない。

わはははは ...  (ホントは笑いたくない)



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つい先日、米国大統領の就任式でトランプはこう言った...
"We will seek friendship and goodwill with the nations of the world - but we do so with the understanding that it is the right of all nations to put their own interests first.
私たちは世界の国々との間に友情、そして友好を求めます。しかしその前提には、すべての国は自国の利益を優先する権利があるという認識があります。"
(※英文・翻訳はニュース記事より転載)

そうだ、確かに"すべての国は自国の利益を優先する権利がある"かも知れないけれど、その権利を100%優先するなら、他国との間に控えめに言って摩擦、つまりは衝突を抱え込むことになるのは当然の理だ。だから他国にも同等の権利があることを認め、お互いが妥協点を見出す必要がある。それが外交というやつだ。それを完全に無視して20世紀初頭へ立ち返ろうとしているかのようだ。そうやって戦争は始まったのだ。。。

他者に敬意を払わない者は、他者から敬意も払われない。
それを他者に敬意も払わずに堂々と発言できるのは、自分がボスだと思っているからだ。世界のボスだという思い上がりだ。
だがボスにはひとつの義務がある。ボスは部下を養わねばならない。給料を支払ってやらねばならない。でなければそもそもボスですらない。
でなければ世界の王様、KINGだと勘違いしているのだ。だが世界は米国が王であるとは絶対に認めない。





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ハグしてキスする文化 ... (続・中南米で生活することの価値) [Argentina 2017]



ラテンアメリカと日本。
それを多くの人々がotro mundoと形容する。
"まったく異なる世界"、或いは"正反対の世界"という意味でもある。
ふたつの世界は地理的にもほぼ正反対の位置にあるし、文化的にも、人々の性格的にも本当に正反対だと思えることがよくある。

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唐突だが、ご存じのようにラテンアメリカでは挨拶としてキスをする。
もちろん、キスと言っても本当にする訳ではない。抱き寄せて相手と頬を合わせて、頬から耳元辺りで"チュッ"というキスの音を立てるのだ。
とっても"いい音"を立てる人がいる♪ わたしにはできないけれど。
"いい音"を聞いた時は純粋に感心する。羨ましく思う。わはははははは
正確にはbesitoと呼ばれるそれは男性と女性、女性と女性の間で交わされる。(キスはBesoという、Besitoとはキスに縮小辞-itoがついた形で小さなものやかわいらしさ、軽度なものなどを表す。)
国によっては男性同士でも交わされることはあるが、それは稀だ。(アルゼンチンやイタリアでは男性同士でもする場合がある)
通常、男性同士は抱擁=ハグと握手までだ。

もちろん、最初は戸惑う。。。
けれどまあ、すぐに慣れる。
最初は特に若くて美人の女性とするのを躊躇ってしまうという自分の中にある可愛さを見つける。わはははははははは
で、最初の頃は、お年寄りとか、ブサイクちゃんとか、おデブちゃんの友達と積極的にbesitoを交わすようになる。(自意識だねぇ。いったい何様のつもりなんだろね!? 苦笑)
だがそのうちやっぱりキレイな若い女性とbesitoしないなんて損だとハッキリ自覚するようになる。わははははははははは
なにがある訳でもなく、何が始まる訳でもないが、やっぱり素敵な人とは距離を縮めたいと感じるし、それを素直に自覚するようになる。
それはとても不思議な経験だ。
日本人にとっては本当に不思議な感覚であり、貴重な経験となる。


そのうち、あることに気づく。
誰か落ち込んでいる人、哀しみのうちにある人に掛ける言葉なんていらないのだと気づくのだ。
そう、ただ抱きしめてあげればいい。
それはとても簡単で効果のある、お互いが素直に優しくなれるおそらくは唯一の方法なのだ。
そして気持ちが伝わる。嘘で抱きしめてもそれはきっと感じ取られてしまうだろう。。。

そういう場面に何度か出くわすと(眺めているだけでも)、"ああ、言葉なんて邪魔なだけだ"と強く実感できるようになる。
ただ抱きしめてあげればいいだけなのだ、と。
それは男女であろうとも決して恋愛感情なんかではない。友情として異性を強く抱きしめてあげることが可能になるのだ。
お爺さんでも、お婆さんでも、若くてきれいな女性でも、ブサイクで太っちょの男性でも、誰でもが他者に抱きしめられることが出来る。
抱きしめてあげることができ、抱きしめてもらう権利があると感じることだろう。
それはありていに言って、とても素晴らしいコミュニケーション文化だ。

おそらくわたしが個人的にラテンアメリカで学んだ一番大切なことはそれだろうと思う。
日本でわたしはとても野暮な男だった。(よく言えば、だ。苦笑)
恋愛中の彼女に対しても面と向かって褒めたりしないタイプの男だった。況してや愛を囁くなんて、こっぱずかしくてそんなバカなこと出来る訳がないと思っていた。ありていに言って、女性に優しくない男だったろう。(酷い男だ。笑)
照れや自意識が女性に優しくすることを妨げていたに違いない。手を繋ぐなんてこともした覚えがない。
いや、女性だけではなく、男女問わず、他者に対して優しく出来ないタイプのホントに野暮な男だった。(小さな子供以外)
そのわたしがこう言うのだから間違いない。
ラテンアメリカ文化の一番素敵なところは親しい人を抱きしめてあげることが素直にできるところだ、と。
難しいだろうけれど、本来はあらゆる国で真似されるべき文化だと思えてくる。
きっと優しくなれるだろう。
きっとわたしもこの10年間で少しは優しくなった。。。と思う。わはは


さて、だが疑問もあるだろう。
えっ!? だって嫌いな奴とでもそんなことしなくちゃいけないの?ってやつだ。わははははははははははは

いや、嫌いなやつとはしない。
それはとてもデリケートな問題を含んでいる。
やり方を心得ないといけないし、お互いがそれを理解していないといけない。
もちろん、それでも公式な場とでも言うべきか、苦手だなと思っていても、第三者に改めて紹介された場などではそれを受け入れるしかないのも事実だ(女性側)。
それほど公的な場でなければ、さっさと手を出して握手を求めることで、キスはしなくていいわよ、と相手に知らせる方法しかない。
だが相手が手を取って、引き寄せればもう諦めるしかない。
だからお互いがそういう雰囲気、空気をちゃんと理解することができるのが理想だ。
そうすればにこやかな会釈や握手程度で儀礼的に済ませることができるからだ。
ああ、普通は頬と頬をくっつけてチュッとやるが、苦手な人の場合はやはり距離を取って、形だけチュッとやることも多い、当然、よそよそしくはなる。わはは
そうだ、強くハグすることもまったく珍しくはない。書かなくてもいいことかも知れないが、敢えて言っておこう(笑)。もちろん、ラティーナの(大抵は)大きな胸が押しつけられる。わははははははははははは
羨ましい??(爆笑)
いや、まあ、いろいろだが、そんなこと意識する女性はいない。
そんなこと意識する男性もいない(いや、きっとちょっとはいるな。笑) 
この距離感は日本人からするとびっくりする以外にない。
ハグをする、頬を合わせてbesitoを交わすというのは、そういうことを意味している。
まったく知らない人、初めて紹介された人とそういう触れ合い方=出逢い方をするということだ。
言っておくが、これは日本人だけでなく、多くの欧米人にとっても違和感のあるラティ―ノだけの特殊な文化なのだ。


さて...だがそれはオトナの場合だ。
子供たちの場合はもう少し残酷な経験を幼少期から積むことになる。

子供たちが学校に行けば、仲のいい子同士ではハグし、挨拶のキスをする(男女の差はない)。毎朝、そして別れ際に毎回だ。
けれど嫌いな子とはもちろんしない。
だから子供たちの中では、オトナのように儀礼的なものではなく、寧ろ"本当に仲のいい子とだけ"するというルールができあがる。
嫌いな人を傷つけない為に、或いは苦手な人とそれ以上気まずくならない為に、ハグとキスをするのは"特別仲のいい子"とだけ、というルールを作るのだ。
そうすれば、少しは棘を和らげることができるだろう。
けれどそれでも片思いが募ったりしてくるとそれはかなり子供たちにとっては残酷な場面もあるんじゃないだろうか、とついつい想像してしまう。わはは

子供たちはそういうことを幼い時から学び身に着けてゆく。
もちろん、オトナになればなるほど儀礼的な挨拶の機会も増えてゆく。
けれどいずれにせよ、家庭では両親から何かにつけて抱きしめられ、また両親や兄弟・親族を抱きしめて育つ。
子供たちは一歩家を出れば、出逢う人々すべてからハグされ、キスされ。キスすることを要求される。。。
それが人間関係の密度をより濃く創り上げてゆくのは当然の帰結だ。
社会全体の人間関係の密度がたとえば正反対の極にある日本とはまったく異なる。
それはとても重要なことだ。単にそれぞれに異なるコミュニケーション文化の形があるのだと片づけていい問題ではない。

社会に於ける人間同士の関わりの度合いがまったく(根本的に)異なってくるのだ。
他者との距離感の違いは様々なシーンで実感される。
正直、それがいい場合も、多少うざったい場合もある。
けれど初対面と人とハグし、キスを交わした後、数日後、街角でふとその人と出逢った時に感じる親しさ=距離感の差はとても大きい。それは無視できないほどに大きい。
ラテンアメリカではよく一度逢っただけでも、もう友達扱いされる、と戸惑うことがある。
もっと言えば、初めて紹介されてもう数秒後には、"amigo友達"と呼ばれるのが普通だ。
最初の頃は"別にオマエと友達ちゃうわいっ"とか思ったりもするのだけれど、慣れてくればこっちだけってそんな気でいることにふと気づく瞬間もある。

肌を触れ合う機会があるということは、本当に言葉だけで何度か逢う機会があるのとは距離感の詰め方が圧倒的に異なる。
嫌いとか、苦手とかいう感覚も握手をし、胸を合わせて抱き合い、耳元でチュッとやるだけで大抵の場合(特に理由のない苦手意識なんかの場合)、それらが氷解することもある。苦手意識という先入観みたいなものが薄らぐ感覚だ。
他者に対する安心感だと言い換えてもいい。(小さな子供の中にはどんなに手振り身振りであやしても緊張感を解かないけれど、ちゃんと触れ合ってみると急に警戒心を解く子もいるように)
よそよそしさがスッと消える。初対面なのに、リラックスできる。
それらは通常、心地よい環境を整えるのに役立つ。
自分の居場所、を確認できると言えるかも知れない。素敵なことじゃない??

なぜこんなことを突然いまさら書く気になったかと言えば、それは日本がますます非寛容の国になりつつあるからだ。
ネット社会を中核に、加速的なまでに非寛容さを拡大しつつある。
もちろん、非寛容さは争いを招く。
米国でもアジアでも、イスラームでも非寛容さが社会を席捲しつつある状態は非常に危うい。
それは戦争の時代を予言するかのようだ。

ラテンアメリカにも争いはいくつもあるし、争いの惨さでは他の世界に負けてはいない。
けれど、それでも一人一人が肌を触れ合う中で、先に挙げた日本や米国、アジアのようなネット社会に於ける非寛容さの増殖現象は感じ取れない。
まだまだ一般社会で平穏に生活している人々は非寛容とは程遠いところにある。
ナショナリズム(愛国心)だって、平均的日本人の何倍も強い。
けれど彼らは自分が好きで、自分が大切で、自分の家族と友人たち、愛する人たちが何よりも大切なのだ。
それを伝えあい、態度に表し、そういう愛すべき(愛されるべき)自己を主張しようとする。
争い(勝利)の為の自己主張とはどうにも異なることに正直、わたしなんぞは面食らってしまうことさえある。わははははははははは


もちろん、いまさら日本がどうこうできる問題ではない。
ハグや挨拶のキスを取り入れるなんてことは絶対的なまでに不可能だ。
それは完全に異質な文化なのだ。

ラテンアメリカにもいくつも学ぶべきところがある。
ひとつは以前書いた価値観の問題だ。Link → 中南米で生活することの価値。
そしてもうひとつが人間関係の濃密さとそれが齎す優しさ=寛容の精神だ。

日本で生活している友人たちに出来ることはなんだろう??
...まずは子供たちを抱きしめて、キスしてあげればいい。
それならば誰に憚ることもない。
子供たちはびっくりするだろう、きっと照れて嫌がるだろう。
けれど、そのうち慣れる。わはははははははははははは
しつこくする必要はない。誰も見てないところで家族だけで、だ。
怒った後で呼んで抱きしめてやることだってできる。(これはきっと重要だ)
子供が小さければ小さいほど環境作りは簡単だろう。大きくなってからでは不可能に思えるかも知れない。
けれど人生の中では何度もそういうチャンスはやってくる。
多少なりそれは不幸な瞬間、哀しみの瞬間と共にあるしかないだろうけれど、皆無ではない。
そういうタイミングで肩を抱いてやるだけでもいいかも知れない。
寛容さを作り出すには長い道のりが必要だろう。けれど出来ることからやるしかない。
子供たちの為に、せめて家庭くらい優しくあってやって欲しいものだ。
子供たちに寛容さを感じさせることが大切だということに異論はないだろうから。
そう、子供たちに教えるのではなく、感じさせることがきっと大切なのだ。寛容さを説いてみても何も始まらないだろうから。


続きがある。けれど今日はここでやめて置くのがいいだろう。
たまには気分がよくなるようなblogの日もあっていいだろうから。
わははははははははははははははははははははははは


では明日。Hasta mañana.

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