So-net無料ブログ作成
検索選択
El Salvador 2016 ブログトップ
前の10件 | -

サンサルバドル近況。。。 [El Salvador 2016]

そんな訳で、わたくし現在はSan SalvadorのYancyたちのお宅に滞在中です♪
主夫業のCarlosと共に毎日あちこちうろついて、パソコンの不具合だとか、デジカメの不具合だとか、必要な充電電池を探しに出掛けたり、PCオタクの彼にあれこれメンテナンスとソフトの更新やらいろいろと面倒を見てもらっています♪
Yancy宅には、現在彼らとわたしの他、マスコットのトトロと姫の2匹がいます。。。そそ、ハムスター。わはははは
なんと部屋の中に放し飼い!! (驚き)
もちろん、彼らの部屋限定ですが、子供のいない彼らはもうまるで我が子のように猫可愛がり、いや、ネズミ可愛がり。。。
傍からみてるとビョーキです。わははははははは
明日はたまたまSan Miguelからわたしも逢ったことのあるYancyの友人が来る予定。

さて。。。San Salvadorと言えば、まあ、アレです。。。悪名高い中米都市のひとつ。。。
哀しいことですが、事実、ここを訪れる度に、誰かの知り合いや又知り合いなどが殺されたという話を聞かされます。
2度めの訪問の際は、最初の訪問時にSan Miguelでわたしを乗せてくれた彼らの知り合いのタクシー運転手が殺されたという話を聞き、今回はCarlosの車を修理に一緒に出掛けたところ、修理工場のオーナーの息子さんがちょうど45日前に強盗に殺されたという話を聞かされた。。。修理工場のオーナーは毎週25ドルというここでは大金を地元のギャングにみかじめ料として支払っているにも関わらず、強盗から息子を守ってやれなかったと嘆いていた。。。

だが勘違いしないで欲しい。どんなに危険な街だって、悪党はほんの僅かなのだ。
大多数の人々は善人またはごく普通の人々なのだ。それは絶対に勘違いして欲しくない。危ない街だから誰も信用できないなんてことはない。むしろ危ない街だからこそ、人々は助け合って生きている。人々は本当に親切で優しい。紳士的でもある。(女性は温かい)
だがほんの僅かな悪党どもが幅を利かせているのも事実だ。
それは社会的に圧倒的な貧しさの中で、努力して登れるような梯子がなく、永遠に貧困に閉じ込められているように感じられた時、若者たちが成り上がる=生き抜くための一番容易で現実的な方法であるからだ。
未来に対する希望や夢がなければ悪事に手を染めるのを自己抑制する道理は細くなる。。。
未来なんてうまく想像できないのだ。。。
精々が今週末朝まで飲み明かしたい、或いはあの女の子を手にいれたい。。。その程度の未来までだろう。
だがそんな未来を手に入れるためには小遣い銭がいる。
仕事なんてないし、仕事したって1ヶ月に150ドルの最低賃金だ。月150ドルで女の子を口説いて週末を愉しむなんてできっこない...
そう考えてもなんら不思議はない。手っ取り早いのはちょっとした強盗だ。幸いピストルならうちにある。。。なんども強盗したことのある友達には事欠かない。一緒にやろうぜ!!てな感じだろう。
あとは捕まるのが嫌なら殺してしまうしかないってことだ。死人に口なし。
善良な人々やごく普通の人々は闘わない。。。身を守るので精一杯だ。悪党どもと闘うために立ち上がるなんてハリウッド映画のヒーローだけだ。
警察機構がもっとちゃんとしていれば。。。確かにそうだ。だが警官になりたい奴なんて貧困層の中からはそうは出て来ない。
なにしろガキの頃にさんざやんちゃしてしまう訳だし、友達を裏切る行為であったりもする。
警官になったら賄賂で賢く稼ぐことに腐心するのも貧しさ故かもしれない。
悪ガキどもをバンバン撃ち殺していたら黒人差別に揺れる米国みたいな国になっちまう。フード被って猫背で歩くような連中はどんどん撃ち殺せってパターンだ。
警察組織がちゃんと機能する為にはやはり社会全体の底上げ(もう少しまともな豊かさ)が必要だったりするのだろう。
警官の中に悪党どもの幼馴染がたくさんいるような社会ではどうしようもないのだ。
警官たちの給料を満足できるラインまで上げたうえに、さらに人数を倍増させなければならない。。。
政府がそんなことに本気で取り組んでいれば今頃は変わっているかも知れない。

けれど政府はそんなことには興味はなさそうだ。
彼らの関心はただただ次の選挙だけだ。
現在の大統領は元軍人で、反共主義者で元暗殺者だと揶揄される人物だ。
彼は秩序の回復を掲げるが本気で取り組む気はない。警官の給与より軍人たちの給与が先決だ。
彼は自身の強面のイメージで秩序回復の公約を掲げても、実際にはただ取り締まれと命令するだけだ。
富裕層からの税金だけで成り立つ国家で、富裕層を支持母体とする彼が税金を上げるなんてことはできやしない。
限られた税収で警官の給与を上げて、人数を倍増するなんてキチガイ沙汰だ。次の選挙で落選確実だ。
対するコミュニスタ(共産主義)陣営は南米の悪い見本に倣って、もはやただのポプュリスタだ。
別に社会主義や共産主義の思想なんてまったく共感なくとも、人口的に圧倒的多数を占める貧困層の旗印を掲げて振れば、当選する可能性が高いというそれだけだ。だから現在左派の党首は金満家らしい。。。どうにもこうにもって奴だ。

それらを妨げるのは、社会構成の圧倒的な貧困と不平等だ。
ここまで来たら、卵が先か鶏が先かの論理だ。
だが誰にもやる気はない。そんなことに興味のある政治家はいない。
政治家は金と野心を満たす職業なのだ。それ以外の何物でもない。
これはエルサルバドルだけの問題ではない。
第三世界全体に共通する問題だ。
貧しさと犯罪のとても簡単な相関関係だ。

対するポプュリスタに何ができるだろう。。。
彼らはただ票田としての貧困層にカネをばらまくだけだ。
次の選挙の為に貧困層対策と称してカネをばらまき続ける。。。
だがどんなに貧困層にカネをばらまいても国家経済は好転しない、悪化の一途だ。
ひとつには実質国家経済を動かしてきた富裕層にそっぽを向かれて、富裕層虐めをしても経済は低下する一方だ。
税収はたちどころに大多数を占める貧困層へのばらまきに消える。。。
国道を補修し、下水道を補修しても経済は一円足りとも好転しない。。。それは必要なことだけれど税収は際限なく尽きてゆく。。。
貧困層に教育費を無償にし、給食制度を無償にし、生活保護、貧困補助、医療費免除。。。どれもこれも必要だけれど、税収はまたたく間に尽き、経済は悪化の一方だ。。。
それはベネズエラ、エクアドルが歩んできた道だ。(ボリビアは貧困層とは言えない社会的弱者だったインディヘナ先住民という人種層を対象としたポプュリスムである点が少しだけ異なるがやってることは似ている。)
在職中に憲法規定を変えて、大統領再選規定を変更し、永続的にその地位に留まろうとする。
或いはニカラグアのオルテガのようにさっさと宗旨替えして、富裕層とねんごろになり、ただ共産主義の旗だけ振り続ける。
自身の党組織にだけカネをばらまき後は知らんふりだ。
いずれも社会主義の看板に泥を塗る行為だ。
この世界はそんなことばかり繰り返してきた。。。
近頃の左派ときたらどいつもこいつもツラ汚しばかりだ。。。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

楽観主義に対する警鐘 [El Salvador 2016]

「まだ苦しんでいる」=水俣病公式確認から60年―全面解決、程遠く   時事通信 5月1日

 公式確認から1日で60年だが、今なお多くの人が患者認定を待ち、損害賠償を求める訴訟は続く。「水俣病不知火患者会」の大石利生会長(75)は「まだ苦しんでいる人もいるし、なかなか手を挙げることができない人もいるのではないか」と訴える。
 同県水俣市ではこの日、患者や遺族、国や県の関係者らが出席して犠牲者慰霊式が開かれる予定だった。熊本地震の余震が続くことなどに配慮し、延期が決まったが、同市は午後1時半、防災行政無線でサイレンを鳴らす。「各家庭で黙とうをささげることになると思う。哀悼の意を伝えたい」と大石さん。
 水俣病は1956年5月1日、同市で原因不明の病気発生が保健所に報告されたことで公式に確認された。手足のしびれや視野が狭くなるなどの症状があり、重篤な場合は死に至った。国は68年、チッソ水俣工場の排水に含まれたメチル水銀が原因だと発表。公害健康被害補償法(公健法)に基づき、これまでに熊本、鹿児島両県で2280人を患者に認定し、チッソが慰謝料や医療費などを支払った。
 認定基準が「厳し過ぎる」と提訴が相次ぎ、2度にわたり「政治決着」も図られた。提訴の取り下げなどを条件に、一時金支給などによる救済対象を広げた。2013年4月の最高裁判決では、感覚障害だけでも患者と認定。これを受け環境省は、認定基準の新たな運用指針を通知した。
 それでも認定のハードルは高い。今年3月末現在、熊本県で1264人、鹿児島県で853人が公健法に基づく認定を待つ。認定を棄却された人による異議申し立てや訴訟もなくならない。大石さんは「全ての被害者救済のため、地域全体の健康調査をしてほしい」と求め続ける。60年を経ても全面解決に向けた道筋は見えていない。 

------------------------------------------------------

福島周辺の健康被害も同様の訴訟にならざるを得ないということをいったいどれだけの人々が理解しているのか。。。
まさか東電や国が進んで補償に応じるなんて今後に及んで考えてはいないと思うのだけれど。。。
因果関係は証明され得ない。。。
例えば、癌のようにあらゆる原因が、複数の原因が考えられる場合は特にだ。
何かでもんかでも食べれば癌になり、何かを飲めば癌になるのだ。
それもまた真実である以上、癌と放射能の因果関係は統計学的にしか間接的に証明できない。
だがそれも放射能汚染が広域に達してしまっている以上、もはやとてつもない困難に直面している。
政府、東電としては汚染区域が全国的に広がり、各地の原発が稼働し、海産物などを中心に食物連鎖などを通じて全国的な数値が平準化されればもう勝ったも同然だ。
楽観主義はこの場合、糞の役にも立たないのだということを叩き込んでおかなければならない。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

もしもミュージックビデオがこの世の中になかったら?? [El Salvador 2016]

唐突だが、もしもMV=ミュージックビデオがこの世の中になかったら??
...ということについて考えたことはおあだろうか??

もしもミュージックビデオが存在しなかったら、今日のヒットチャートは、いや、ここ30年間のヒットチャートはまったく別のものになっていただろう可能性についてだ。

もしも...なんて考えは無用だと言う勿れ。わはははははははははは
この場合はとても意味ある考察に繋がるはずだ。

もしもミュージックビデオが存在しなかったら、1983年のマイケル・ジャクソンの"スリラー"は売れたにしても、ここまで伝説的なヒット曲にならなかったろうことは間違いない。それどころ余談ならゾンビブームすらなかったかも、だ。わはは

もしもミュージックビデオが存在しなかったら、マドンナは、シャキーラは、レディガガは、ビヨンセは、いったいどれほどの人気を博していただろう?ということだ。

もちろん、なにも彼らだけではない。すべてのPOPシーン、ROCKシーンに言えるだろうことだ。J-POPはこの際どうでもいいが、もちろん例外ではなかろう(知らないから言えない。笑)

たとえば、先日FacebookでCharlie Simpson - Walking With The Sanという曲をたまたま友人がシェアしていて見た。
なんてことはないごく普通のコンテンポラリーRock??だ。ホントになんてことはない。わははははははははは
ところがそのVideoが魅せる。
Videoの出来栄えはホントにステキだ。これは狡いぞ、と思いながらも5-6回リピートして観てしまった、聴いてしまった。。。
もしvideoがなければ譬えラジオから流れてきてもわたしの注意を惹くことはまったくなかったろう。
けれどこのMVの所為であやうくこんな曲がステキに思えてくるところだった。わははははははははははははは


最初に気づいたのは2008年のことだ。(長い間温めたネタやなー。わはははは)
わたしはスペイン語のレッスンを兼ねて、ラテンPOPSなども聴くようにしているのだが、ちょっと個性的なRosario Floresというスペインの歌手がお気に入りだ。
だが2008年に彼女が出したシングル No Dudaría (https://www.youtube.com/watch?v=svvNRwAS8fY)はダサい。。。もうまったく演歌、ムード歌謡の世界だ。。。albumをわざわざNicaraguaで購入したわたしはガッカリだった。。。もう聴くのも苦痛なくらいだ。
その後、しばらくしてたまたまMTVみたいな番組を観ることがあって、No Dudaríaを観て、聴いた。
やっぱりダサいけれど、CDで聴いたよりはずっとマシな印象だった。
これもまたVideoに助けられて、いや、利用して狡い感じだ。わはは
この時わたしは気づいたのだ。いったい我々はなにを聴いているのだろう、と。

もちろん、わたしの本分は(なんの話??笑)、JazzそれもFree JazzゃMofern Classic(弦楽現代音楽)なので、その世界にはミュージックビデオなどアルバム、プロモーションのドキュメント以外のどんな意味もありはしない。大半はインタビューだ。わはは

さて、話を戻そう。
多くの人々が、いや、すべての音楽ファンが、自分たちはそれぞれこの曲が好きなのだ、とかあれこれ主張するだろうけれど、人々はいったい何を聴いているのだろうということだ。ミュージックビデオがなく、ラジオから流れるだけがすべてだったとしたら、彼らはまったく同じ音楽に夢中になっただろうか、ということだ。

わたしのような年寄りは(笑)、中学、高校時代、勉強の傍ら、ラジオを聴きながら育った訳だが(片面20数分程度のLPを掛け替えながら勉強することは不可能だった。笑)、調べてみると、1975年にQueenが"Bohemian Rhapsody"のプロモーションビデオを作ったのが初めと言っていいらしい。その後、David Bowieが"Ashes to Ashes" (1980)を作ったらしいが、その時点まではまだまだ単発的な試みのようで、今日のような状況ではなかったらしいし、後年になるまでそんなものを観たことはなかった。だがそれらが火付け役になって、どんどんとミュージックビデオが作られるようになり、ついに1981年、MTVがスタートして、一挙にミュージックビデオがすべての歌モノ楽曲の基本プロモーション=スタンダードとなった訳だ。

そして1983年、マイケル・ジャクソンの"スリラー"が登場して、ミュージックビデオの世界観は一変する。
それまでは歌手が歌うシーンをメインに、歌のイメージをバックグラウンド的に映し出す程度のものだったものから、より映画的なものへ、そしてディスコブームの去ったあと、シンガーによる本格的なダンスミュージックclipの全盛期へと繋がってゆくことになる。

あなたは、いや、わたしも含めていい、我々は曲そのものを聴いているつもりでも、実はさまざまな情報を統合的に聴いているのだ。
MVは本当に多くの情報を持っている。シンガーの容姿風貌だけでなく、ダンス、歌い方だけでなく、歌詞だけでは伝わらない歌詞に隠された(或いは含まれてもいない)意味まで、それどころか歌詞では表現できていない部分(歌詞の不足)まで補い。ファッションやシンガーのビジュアルイメージを膨らませ、もはや3D的でクリエイティブなグラフィック映像を多用することで、映画の予告編並みの編集テクニックによって、人々にその音楽をカッコいいと認識されるのに重大な、欠くことのできない仕事を果たしている。
暴力的なイメージ、ロマンティックなイメージ、セクシュアルなイメージ、政治的なメッセージ、内容によらず壮大な最先端技術によるグラフィック世界のイメージ。。。さまざまな情報がイメージとして観る者に植えつけられる。。。
もはやそれは後戻りできないだろうほどに徹底的に音楽のあり方、ヒットチャートのあり方を変えてしまった。
実のところそれはMVによる洗脳だと言い切っていい。
一曲単位に留まらず、アーチストのイメージ確立による洗脳まで担っている。

実のところ、我々は楽曲を聴いているつもりでも、楽曲以上のものを聴いているのだ。
それは膨大なイメージの情報量を伴っている。
先入観として特定のアーチストを支え、楽曲を聴く前から我々は洗脳されてしまっている部分さえある。
トップスターのMVには膨大な経費が注ぎ込まれる。
話は少しズレるけれど、MVとシンクロするようにアレンジだって相当手が込んでいる。
なんてったって、ソングライターがギターやピアノで作曲した原曲イメージではMVのイメージにはそぐわないだろうからだ。
時にはデモテープとは、まったく異なる印象に仕上がることだって少なくないはずだ。
だが楽曲というのはアレンジによらない部分のことだ。違うだろうか?

いったい我々は何を聴いているのだろう??
音楽を耳で聴いていると言い切れるのだろうか??
あなたは音楽を聴いているつもりでも、実はイメージを聴いているのかも知れないということだ。
少なくともあなたの楽曲の好みはその大部分を長年のMV視聴によって培われてきたと言って間違いないだろうということだ。
一旦、特定のアーチストに付随したイメージはもはや拭い去ることはできないまでに先入観としてあなたを洗脳している可能性すらある。

もしミュージックビデオがこの世の中になかったら??

もしもミュージックビデオが存在しなかったら、今日のヒットチャートは、いや、ここ30年間のヒットチャートはまったく別のものになっていたはずだというのはかなり確実性のある仮定だ。
そして...それを認めるなら...
それらが真実であるとするならば、すなわち、あなたの音楽の好みもまた、まったく異なっていただろうということを認めなければならない。
自分だけは違うというのは自惚れというやつだ。わはははははははははははは

この際、自分自身を徹底的に解体してみたら如何だろう??
いや、言っておくが、一旦あなたが獲得した先入観と洗脳から逃れる術はないと申し上げておく。
それから距離を置くには、今後一切のミュージックビデオを完全に拒否することだ。
10年か、20年、完全に一切のミュージックビデオを寄せつけないことに成功したら、その時、新しく初めて聴くアーチストの楽曲を耳で聴くことが可能になるかも知れない。まあ、そんなことにどれだけの意味があるかは知らないけれど。わはははははははは


自分の嗜好や感性などというものは膨大な情報の波に操られている。。。
わたしたちは知らず知らずのうちに、膨大な情報のイメージに洗脳されているのだということを知ることは無意味ではない。
それは音楽だけには留まらない。
政治的な見解も、科学的な推察も、異性(同性)の好みや見方も、食生活だけでなく、衣食住のありとあらゆる好みや感性、或いは思考そのものも、社会が我々に押しつける膨大な情報のイメージ(記号化)によって、左右されているのだ。
そこから逃れる術はない。だからこそそれを意識し続けなければならないのだ。

"これが自分の考えだ"と安易に表明する前に、その考え(=自分の考えだと思い込んでいるモノ)が、どこから来たものかよくよく考えてみるべきなのだ。受け売りばかりしているとあなたの考え方はちぐはぐになる。当然の結果だ。
ナニモノにも影響されない考えなど存在しない。すべてはナニモノかの影響下にある。それはひとつではなく、複合的なナニかであるだろう。あなたの人生の長年に渡る複合的なものの影響下にあるかも知れない。
言いたいのは、ただ論理的な影響ではなく、イメージの、記号による、印象による影響を少なからず、いや、多大な影響をそれらによって受けているということだ。

もう一度だけ、もっとも単純な形へと集約しよう...それが、

もしもミュージックビデオが存在しなかったら、今日のヒットチャートは、いや、ここ30年間のヒットチャートはまったく別のものになっていたはずだ。RockやPOPS、ブラックミュージックやダンスHIPPOPミュージックなどなどがお好きなら、あなたの音楽の好みもまた、まったく異なっていただろうということだ。




nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

エクアドル地震続報とサンサルバドル近況 [El Salvador 2016]


エクアドル、マンタ近況 

先日、Davidからメールが届いた。今週からマンタの新市街では平静を取り戻し、通常の生活が始まった模様。
彼らのレストランも通常営業を始めたと言う。
但し、旧市街タルキなどではいまだに倒壊した建物の下敷きになったままの遺体収容作業が進められており、腐敗臭等、衛生上の問題があって、現在も多くの場所が立ち入り禁止区域に指定されており、自宅もなく、避難先確保もままならない人々が大勢いるという。
もはや日本のメディアニュースは取り上げないようだけれど、現地では不休の作業が続いており、まだまだ援助を必要としている。
エクアドルからは現地に滞在する日本人子弟のための日本補習校や日本大使館などが中心となって毎年のように東北大震災へのチャリティー募金の催しが行われている。特に被害の大きかったマンタにはマグロ漁港の関係で30-40年と住み着いて現地で家族を持っている日本人の方々も少なからずいる。
そういう意味でもエクアドル地震は日本から遠く離れた異国の他人事ではない。マンタより北部震源地に近い地域で、日本人宿を経営しておられた方はホステルが全壊し、避難生活を余儀なくされているとも聞く。
できるなら日本からもぜひ支援をしてあげて欲しいものだ。


----------------------------


 さて、Davidから近況を知らされると共に、ひとつの申し出があった。。。
できれば今年中に首都キトにレストランMAIDOをもう一店舗出したいので手伝ってくれないかという話だ。
大変ありがたいし、光栄だが、申し訳ないがお断りした。

 まず実のところわたしはエクアドルという国が好きではなかった。。。
なんとなくエネルギー不足で沈滞した空気漂うラティーノらしからぬ気風が気に入らないのだ。
そして本当のところDavidとの確執もあった。
彼と働くのはなかなか難しいというのも事実だ。いや、彼は悪い人間じゃない、善人だし、物当たりのいい男だ。
だが要は器の問題だ。器が小さいとわたしのような自由気ままな、なんでもかんでもいろんなことを試したがる人間が一緒に働くのは難しいということだ。わははははははは

 ただ今回の地震でわたしの中にあるエクアドルへの想いも確認することができた。
だからDavidにも言ったのだけれど、9月になったらメデジン(コロンビア)経由でエクアドル(キト~マンタ)にも立ち寄ろうと思う。
正直なところマンタにはできるだけ近づきたくなかったのだが(引き止められるのが目にも見えているので)、今回の地震でやはり被災した現地の友人たちを訪ねてみたいという想いが沸き起こってきたという訳だ。


----------------------------

さて、話変わってSan Salvadorの話。

先日のYancyの、なんていうんだろ大学の一課程の修了式があった。
なんと彼女は40才にもなって、大学にもう一度通っている。
以前は大学で経済学を学んだようだが、今回は犯罪精神医学を専攻している。
しかも働きながらだ。早朝または夕方から毎日4時間、土曜日は8時間、大学へ通っている。
凄いなあ。。。
もちろん、毎月のように試験もある。今回ですでに2つの単位を修得していて、残すところあと2つ。1年半ほどの課程が残っているらしい。しかもなんと彼女は首席なのだ!! 
テストは90点台は当たり前で、どうしても満点でないと気が済まないらしい! 
おっどろきだぜ♪ わはははははははははは

もちろん、彼女だけではない。先日その単位修了式の際、記念写真を撮って欲しいと頼まれて大学へ向かったのだが、そこで精神医学を学んでいる人たちはみんな社会人ばかりだ(早朝、夕方クラスだからだ)。30代から40代まで30人以上の人々が仕事をしながら学んでいる。弁護士あり、医師あり、それぞれの職場で生かそうという人たち、或いはYancyのように仕事を変えようという人たちだ。
 
IMG_0141.jpg 
Yancy

IMG_0128.jpg
CarlosとYancy、大の仲良し夫婦だ♪

Yancyはと言うと、現在の職場、市の公営墓地管理事務所で14年も働いている訳だが、それでも月500ドルしか収入はない。
しかも準公務員の職位は保障されておらず、選挙毎に支持政党が入れ替わると職場の人間はほとんど勝利政党の人々に総入れ替えされると言う。Yancyは一切どちらの政党をも支持しないという立場を取っているらしく、たまたま14年間それほどの政党の入れ替えもなかった所為で、現在も仕事を続けているが、支持政党を持たない所為もあって、出世からも外されているという。
そんな職場には保証も未来もないということで、現在彼女は上に書いたように犯罪精神医学を学んでいる。
犯罪精神医学というのは、犯罪心理学とはやや趣きを異にしている。犯罪心理学というと犯罪者の心理分析や捜査協力などを想像できると思うが、Yancyが目指すのは、犯罪者の精神鑑定(責任能力の有無)やDV、幼児虐待、性的犯罪者、アルコール麻薬中毒嗜好者などの治験や更生などの社会的プログラムへの参加だ。だから犯罪社会学や精神病理学、神経医学などの単位が必要になる。
もちろん、その仕事は重責のあるもので、大学で学位を修了したからといって、すぐに仕事になる訳ではない。相応の経験を積まなければならない。だからYancyの計画ではあと2年近くで大学を修了して、今度は墓地管理事務所の仕事を続けながら犯罪精神医学の現場で働こうというのだ。仕事の掛け持ちだ。
ホント凄いないか?? 凄いよね。。。
もちろん、Yancyはその分我儘だ。わははははははははははははははははははは
まあ、仕事をしない主夫業のCarlosに対してはかなり我儘な要求を突きつける♪
けれどふたりは本当に愛し合っていて、傍から見ていて暑苦しいくらいだ。わはは

IMG_0055.jpg
クラスメイトたちと教授(センター)


IMG_0090 jpg.jpg

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

選挙にゆく前に、思想信条の矛盾点を発見し、明確にするためのアンケート [El Salvador 2016]

参議院など廃止されるべきなのだという考えは変わらない。
けれど今すぐそうもいかない以上、せめて考える機会として生かすべきだ。
 
ダウンロードすれば(少しは)読みやすくなります。
※A4プリントサイズで作成しましたが、pdfをアップロードするサーバーがなくファイル添付できません。
Facebookからならjpgですが、A4サイズ取得可能です。
 
シェア歓迎。

アンケート.jpg

 
アンケートに答えることが目的ではなく、考えるための素材です、集計など愚かな作業ですし、アンケート結果をお知らせ頂く必要もありません。
敢えて、質問事項はまとめず、肯定文と否定文を入り交ぜてあります。

結果を読み解くのも個人の仕事です。
問い合わせにはお答えできませんし、そんな気もありません。どうか主旨をご理解ください。


--------質問内容---------------------------

1. 安保関連法案は撤廃すべきだ

2. 自衛隊は違憲であると思う。

3. 原子力発電に反対である。

4. 米軍の辺野古移転に反対である。

5. 日米安保条約はいらない。

6. 米軍は日本国内から完全撤退すべきだ。

7. 消費税10%導入には反対だ。

8. TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加に反対である。

9. 福島周辺産の食材は未だ販売されるべきではない。

10. 福島周辺の避難民の帰還はできるだけすみやかに果たされるべきだ。

11. 福島の復興を政府は責任を持って果たすべきだ。

12. 東電の被災者・避難民への賠償は半永続的に続けられるべきだ。

13. PKO派兵に反対である。

14. ODAは大幅に縮小されるべきだ。

15. 死刑制度の存続に賛成である。

16. 南京大虐殺や従軍慰安婦という歴史的問題は誇張または虚偽である。

17. 南京大虐殺や従軍慰安婦についての賠償責任はすでに終えている。

18. 女性の社会進出はまだまだ不足している。

19. 中国や韓国、北朝鮮の軍事的脅威を感じることがある。

20. 竹島は日本の不可侵の領土である。

21. 南北朝鮮がいち早く統一されることを望む。

22. 北朝鮮政府は中国に統合・管理されるべきだ。

23. 無期刑のあり方を考え直して、有期刑の累進加算を導入すべきだ。

24. ヘイトスピーチ禁止は表現の自由に抵触する。
 
25. 同性婚に賛成である。
 
26. 公的年金制度の維持のために、増税など年間10兆円程度の補填はやむを得ない。

27. 夫婦別姓に賛成である。

28. 高品質である日本の農産物はもっと海外へ輸出されるべきである。

29. シリア内戦は武力介入を行ってでも直ちに終結させるべきだ。

30. マスメディアによる政策の批判的検証は正当な責務である。
 
 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

卓球台2台の広さにたなびくナショナリズム。。。 [El Salvador 2016]

"卓球台2台の広さで島の定義に適合するか"... まさに日本の屁理屈だし、竹島を含め日本人が住みもしない、決して住もうともしない島々の領有権を主張しているのは、ただ単に200カイリ問題での漁業権の主張に他ならない。(のちになって海底資源の問題が発生したが、これもまた日本政府は本気で開発する気はない)

漁業権の主張の為に、全国漁協の選挙支持を得るために、地方代議士と組んで与党が演出するナショナリズムの扇動に人々は惑わされている。

問題の本質は漁業権なのだ。それは動かしがたい真実だ。

-------------------------------------

台湾「沖ノ鳥島は岩」 漁船拿捕問題 中韓と同様の主張に転換か  産経新聞 4月26日

 海上保安庁が沖ノ鳥島周辺の排他的経済水域(EEZ)で違法操業していた台湾漁船1隻を拿捕(だほ)した問題で、台湾の馬英九政権が、沖ノ鳥島を国連海洋法条約でEEZを設定できる「島」ではなく、設定できない「岩」だと主張し始めた。台湾は従来、日本への配慮から沖ノ鳥島を「島」か「岩」かは「定義しない」としてきたが、「岩」だとする中国韓国と同様の立場に転換したとみられる。
 台湾の外交部(外務省に相当)は、逮捕された船長や漁船の返還を求める25日の抗議声明で、沖ノ鳥島を「沖ノ鳥」と表記し、同島の地位が「国連大陸棚限界委員会の審査で完全に確定していない」との理由で、漁業権などの「尊重」を求めるにとどめた。
 漁業署(水産庁)は2012年と14年、同島周辺200カイリ内での操業を避けるよう漁協などに通知している。
 だが、馬総統は25日夕に招集した「国家安全会議」で、岩を意味する「沖ノ鳥礁」と呼び、「卓球台2台の広さで島の定義に適合するかは極めて大きな論争がある」と主張。出席した張善政行政院長(首相)は26日、記者団に「絶対に岩で、島ではない。経済水域はない」と断言した。
 ただ、外交部の報道官は同日、「従来の立場に変化はない」と述べるなど、政権内部で方針が統一されていない可能性もある。
 【台北=田中靖人】

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

Saloméフリーク ... "ワイルド サロメ" [El Salvador 2016]

ようやくだ。。。

3年待って、ようやく"Wild Salomé"を観た。
Al Pacinoがオスカー・ワイルドの"サロメ"を映画化すると聞いて以来ずっと小まめに探し続けてきたが、ようやく入手することができた。
内容というか、仕様としてはかつてAl Pacinoが監督・主演したシェイクスピアの"リチャード三世"の映画化"リチャードを探して(1996)"と似たような構成だ。いわゆる舞台劇を映像に収めた感じだ。

違いがあるとすれば、冒頭で字幕として表示されるようにここでは劇中の人物は現代風のスーツやドレスなどを着用しているということだ。そして前作に挿入されていた制作風景ドキュメントは一切なく、純粋に劇部分だけが収められているということだ。

 
wilde_salome (1).jpg 

かつて日本にいる時、"リチャードを探して"を観たあと、わたしは"惜しむらくは完全な形で本作を通常の映画として完成させて欲しいものだ"という風に書いた。(※かつてのblogはもう消失してしまったので参照できない。)

だがわたしは間違っていた。。。ちゃんとAl Pacinoの意図を組んでいなかった。。。
実はそれがここに映画評らしきものを書く最大の理由だ。

たとえば"リチャード三世"を通常の形で映画化したとしよう。
いったいどれほどの巨額の資金がいることだろう??いや、お金のある、ない、の問題ではない。
おそらくは"リチャード三世"を通常の形で映画化するためには数十億円は必要だろう。昨今のハリウッド映画の製作費はキチガイ沙汰だ。だが本当にお金のある、ない、の問題ではないのだ。
片や"サロメ"なら一幕劇だからそれほどの大金は掛からないだろう。出演料込みで数億~十数億円もあれば十分じゃないのか?
それにしても、だ。。。それにしても、我々庶民からするととんでもない製作費であることには変わりはない。
映画の観るのはわたしたち、庶民なのだけれど。わはは

さて、数十億円という製作費を掛けた大作"リチャード三世"をわたしたちは観る。けれどわたしたちは結局のところ何を観るのだろう??衣装??セット??膨大なエキストラ??随所に使われるCG??
いや、結局のところ我々が観るのはお芝居なのだ。
数十億円という製作費を掛けた大作"リチャード三世"を観ても、わたしたちはそこに何らかの嘘臭さを感じ取る。。。
十数億円の製作費の投入された映画"サロメ"を観ても、同様にわたしたちはそこかしこに映画であることを意識して何等かの嘘臭さを感じ取る。いや、そんなものに敢えて目を瞑る人たちばかりなのかも知れないが、どんなに目を瞑っても、自分自身をごまかし切れるものではない。。。
歴然としてそこには虚構がある。もうAlPacinoがリチャード三世やヘロデ王を演じていることだけでも嘘臭さを感じ取れる。
トミー・リー・ジョーンズが演じようが、トム・クルーズが演じようが、誰が演じようが同じことだ。
ヘロデ王やサロメが英語をしゃべっていることだけでも嘘臭いというか、リアリティはゼロだ。わはは
数十億円という製作費はできるだけその嘘を感じさせまいとして使われると信じたいが、どんなに努力しても、そこにハリソン・フォードやトム・ハンクスが出て来るなら嘘であることは明白だ。どうしようもない。わはははははははははははは

ついでに言えば、役作りの為に減量や増量、髪の毛を抜いたことが役者としての演技力であるかのように評価されたりする。バカげた理屈だ。そんなもの演技力とどう関係がある??

さて、そうだ。映画と舞台劇は異なるけれど、結局のところ我々が観るべきはお芝居なのだ。
"サロメ"なんてせめて舞台衣装や舞台セットだけでも...なんてついつい思ってしまうけれど、それだけでも億単位のお金が掛かるのが昨今だ。

だが下手すると観客たちは、芝居ではなく、その数億円~数十億円を観る。。。
その数億円~数十億円を掛けて作られた衣装やセット、CGを観て、凄いなあ...と言う。
そうじゃないか??それを否定できるか??

果たしてそれは意味のあることなのか?? 数十億円を費やすほどに、それほどまでに意味のあることなのか??

もしもミュージックビデオがこの世の中になかったら?? 、で先日書いた通り、我々は音楽を聴いているつもりでも、実は音楽以上のものを聴いているのだ。それは膨大なイメージであり、実のところ音楽なんぞ聴いちゃいないのだ。

我々は映画を観ているつもりでも、実際なにかよく分からない個人の中にある妄想を観ているに過ぎないのだと言えなくもないかも知れないってことだ。わははははは
少なくともお芝居(演技)を観ているとは言えない。寧ろ、演技を演技として観ないように極力努力して目を瞑っていると言うべきかも知れない。

おそらくは、Al Pacinoの目論見はそこにあるのだ。
演技者としての俳優たちのドキュメントなのだ。
だからこれは映像作品ではあるけれど、映画とは呼べないのかも知れない。
俳優たちの演技を、演技として観客見せつけようという試みだ。
演技を際立たせるには古代風の衣装など不必要であるばかりか、邪魔で、微妙な嘘臭さを振りまくしかないという訳だ。
21世紀に役者によって、演じられている舞台劇なのだということを片時も忘れさせない演出の一環だと言える。

もちろん、映画と演劇では演じる俳優にも大きな違いがある。舞台上では役者の顔の表情など見えない為、身体全体を使って大きく演じる必要がある。発声にしたってそうだ。一方の映画ではいつでも必要に応じてクローズアップが多用される為、小さな目の動き、頬の痙攣すら観客に見せることができるし、絞り出すような、囁くような声だって問題ない。

そんな訳で、この作品は映画ではあるけれど、演劇を観るつもりで見られることをお勧めする。
出来栄えは悪くない。わたしは何度も原作を繰り返し読んで、暗記している部分も多いし、英文(原典はフランス語)で読み切った唯一の作品でもある。けれど随所に現代的なエッセンスを散りばめたセリフが追加され、言葉遣いも現代的なものに直されていたりもして、わたしのようなサロメ・フリークにも新鮮さを与えることを忘れてはいない。むしろそういう工夫がなければやはりインチキ臭さが漂ったかも知れない。

サロメは何度か映画化されているけれど、本当にどれもこれも嘘臭くて、或いは自分の中にあるイメージと違い過ぎて作品として受け入れることが出来なかったけれど、この作品は、自分の中のサロメではなく、現代において役者たちの演じるサロメなのだという当たり前のことを常に意識させ続けてくれる所為で寧ろ、受け入れることに抵抗を感じなかった。

サロメ・フリークのわたしがそれなりの満足を覚えるのだから、入り方さえ間違わなければ(21世紀の演劇であるということ)見応えのある作品じゃないだろうか。

※わたしはAl Pacinoのファンを自称しているが、"ゴッドファーザーPart2(1974)"、"スカーフェイス(1983)"以降は前出の"リチャードを探して(1996)"以外は本当にどれもこれも駄作ばかりだと酷評してきた。"ゴッドファーザーPart3(1990)"さえ、Pacinoに限って言えば或る種の哀しさを覚えるほどだ。だからそんな風な贔屓はしていないつもりだと付け加えておく。



ついでに、先日Azam Aliが率いるNiyazのマルチメディアショーという試みがFacebook上にupされていたのだけれど、わたしの中でのサロメのイメージに一番感覚的に近いのはこういうものだと思うので以下にリンクしておく。
もちろん、このvideo自体はサロメとは一切関係ない。








nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

子供時代からの卒業。 [El Salvador 2016]



「義援金は収入」善意に壁 生活保護停止も 受け取り迷う被災受給者(西日本新聞) 

 熊本県は6日、熊本地震の被災地支援のために4月末までに寄せられた義援金約57億円の第1次配分を、被災自治体に振り込んだ。義援金は市町村を通じ被災者に渡されるが、被災した生活保護受給者の中には受け取りを迷っている人もいる。義援金が一部でも「収入」と見なされれば、生活保護費が減額されたり停止されたりするためだ。制度が壁となり、国内外の善意が弱者に届きにくくなっている、との指摘もある。

...というニュースがYahooにあげられていた。中身はリンク先を読んで頂くといい。

だが、もっとも驚いたのは、糞コメント欄の大半が被災した生活保護受給者に対する厳しい意見で占められているということだ! 当事者の身になって考える、自分の身に置き換えて考えるということがまったくできない訳だ。
こういうニュースの受け取り方ひとつ見ても日本の先行きは絶望的に暗いという他ない。

わたしはなんども子供文化のオトナによる簒奪を批判してきた。
子供用の文化は子供たちの身近に、その手元に置いておくべきだということを主張してきた。
いつまでも我々は子供のままでいてはいけないのだ。いつか自身の子供時代と訣別しなければならないのだという考えだ。
子供のままでいたい。。。いつしかそんなフレーズをまるで自身の純粋さの証であるかのように掲げる人たちが増えてきた。
だがそれは寧ろ、まったく純粋ではない動機から発っしたお笑い草のフレーズだ。
我々は子供のままではいけないのだ。
上のニュースのコメント欄をみてみればそれが分かる。
そこで被災者に非情な言葉を投げかけているのはみんな子供たちなのだ。
いや、哀しいけれど、ほとんどが成人だろう。だが中身は本物の子供なのだ。
あなた方はいったい子供と大人の違いをどういう風に捉えているのだろう?
年齢ではない。世界中、齢をとった子供ばかりが繁殖している。
知識でもない。ろくに勉強もせず、社会に出ても何も学ばず、アホなままで寿命を迎える年寄りたちにも事欠かない。
知識を積み重ねたからと言ってオトナになったりもしない。一流大学卒のバカと評される人間たちはみんな総じて子供なのだ。

もう一度戻ろう、或る人物を"あの人はオトナだ"と評する時のことだ。
その時、オトナの基準は年齢でも、知識でもない。
ではなんだ??

感情のコントロール??
まあ、否定もしないが、感情のコントロールは別の次元、別の理由でも可能になる。
コントロールする為に感情を押し殺すことは、オトナになることとはイコールではない。
感情をうまく表現できないようではオトナどころか、人間として正常でもない。
感情豊かであること自体は問題ではない。それがそのまま子供の要素だとまでは言い切れないということだ。

では、いったいなんだ??
子供とオトナの決定的な違いだ。
それは世界観なのだと思う。

子供たちはみんな自分が感じているように他のみんなも感じていると信じている。
自分の周囲にいる人々は、自分と同じ考え方、同じ感じ方をしていると信じている。
だから自分の要求が受け入れられないという事態が呑み込めない。そして駄々をこねる。
子供たちは自分の観念を社会に投影して生きている。
よく子供は自分がすべてだから、と言われるのも同じ理屈だ。
子供は他者というものがうまく想像できない。況してや社会などまったく想像できない。
子供は自分が感じるものを実態(真実)であると信じて生きている。彼らにとっては自分の感じているものが、見ているものが、聞こえてくるものがすべてだし、"価値観の違い"なんて言葉は理解できないだろう。わはは
すなわち、他人の身になって考えるなんてことはできないのだ。
クラスメイトたちひとりひとりが別々の人格で、それぞれに異なった感じ方や考え方、物事の認識の仕方を持っていて、同じ音楽を聴いても、同じ食べ物を食べても、同じ言葉を聞いても、それぞれに感じ方、捉え方が違っていて、しかもそれがどれも間違っているというようなことではない、という事実は子供であるうちは想像できない。
どれかが正解で、他のものがすべて間違っているとしたら、自分の感じ方や考え方が唯一の正解で、他者の、他の感じ方や考え方は間違っているのだと信じるのが子供時代というやつだ。

少なくともそれぞれの感じ方、考え方すべてがそれぞれに正当性を持っているのだと受け入れることができる子供はいない。もしそれができる子供がいたら、その時わたしたちは、彼のことを"あの子はオトナだなあ"と言うのだ。

 人間は齢をとったり、知識を増やしたからと言ってオトナになったりなんぞしない。
オトナというのは、ちゃんと他者や社会を認識でき、それに対応することのできる人物のことではないだろうか?!
子供とオトナの違いは、自分と他者や外界という存在をきちんと区別して認識し、それを尊重できるかに掛かっていると言えなくもない。

ではいったいどうしたら、そういうオトナになれるだろう??

それもひとりひとり、個人個人にいろんな過程があって、一概には言えないだろう。
けれど、そういう人たちがそれぞれに自身の子供時代との訣別を果たしているだろうということは言えそうだ。

オトナになるには、自分自身の子供時代と訣別しなければならないのだ。
少なくとも子供時代というものを認識するには、そこから卒業していなければ認識できない。

"背伸び"という言葉がある。
オトナぶってみたり、知ったかぶりしてみたり、身の丈に合わないことをしようとすることを表現した言葉だ。
1960年代、子供たちは精一杯、背伸びをしようとするのが一般的だった。
大学生の学生運動にもそういう側面はあったろう。
中高生にもなったら、日本の歌謡曲を聴くのをやめて、洋楽を聴いてみたり、ギター片手にフォークを歌ってみたり、マンガの世界から卒業して、哲学書を手に取ってみたり、文学青年(少女)を気取ってみたり。。。
学生運動に参加してみたり、社会主義にかぶれてみたり。。。生きるとはなんぞや、何の為に生まれてきたのか、自分は何者なのかと問いかけ、自殺を意識してみたり。。。
タバコを吸ったりするのも、不良ぶってみたりするのも、背景には"背伸び"という意識があった。
早く童貞や処女を捨てたがったのもやはり早くオトナの仲間入りをしたいという"背伸び"という側面もあったろう。
みんな"背伸び"した。。。それぞれに"背伸び"の仕方は違っても、みんな早くオトナの仲間入りをしたくて、いろんな間違いも犯したろう。
少しでも早くオトナの仲間入りをしたい。。。それが"背伸び"というやつだ。

だがそれは1970年代半ばになると急速に萎んでいった。。。

学生運動に代わって60年代末から登場したLove & Peaceだとか、フラワームーブメントだとか、そもそもはそれらもひとつの運動だったはずなのに、それらは急速に性質を変え、社会運動から自分たちの殻に、自分たちの小さなサークルの殻に閉じこもって、(社会や他者に対して)なにも行動しない享楽的ななにかへと変質してしまった。。。(フリーセックスまで叫ばれた時代だ。笑)

暴力に訴えるのをやめようという呼びかけが、争いをやめて仲良くやろう、人生を愉しもうという風に変質するのに時間は掛からなかった。。。

難しい議論はやめて、ありのままを受け入れようなんて概念は当初のLove&Peaceの概念とは相容れない。
けれどそれは争いに倦んでいた世界を、ベトナム反戦運動の影に隠れて、急速に変質させた。。。

日本では"狭いニッポンそんなに急いでどこへゆく"というフレーズが流行り、"のんびりゆこうよ、俺たちは"という歌になった。
学生運動はすっかり敗退し、ノンポリ派が社会に出て王道となり、社会運動の残り香を"青くさい"と一笑に付した。

労働組合のデモ・ストも一気に形骸化し、80年代になるとゼネストは当日前夜には妥結されるのが常となった。。。
もうストは行われなくなった。。。
労働組合活動は寧ろ、会社役員とのコネ造りだと出世の裏口だという輩まで輩出したほどだ(実体験でそういう奴がいた)。

そしていつ頃からか、"オトナになんてなりたくない"という言葉が囁かれ始めた。。。
その声が何処から来たのかわたしは知らない。。。
だがそれは身近なところで、身近な若者たちから直接、耳に飛び込んできた。。。

"子供のままでいたい"という言葉は、"ありのままの自分を受け入れる"などというセラピスト的な言葉と相俟ってひとつの寛容主義を導いたようだった。
それは自分自身を甘やかすだけのように、わたしのような人間には聞こえたのも事実だ。
"このままでいいんだ"、"無理に変わらなくていいんだ"、自己愛を認めよう、自分自身を好きになろうというような言葉が何処からか聞こえてきた。

...そして現在に至る訳だ。
大勢の年齢的にはオトナであるべき人々が、オトナになるのを堂々と拒否して、子供のままでいることを選んでいる。
フリーターという言葉が生まれ、就職難がさらに輪をかけてフリーターの人口を増やした。
実際のところ、景気の動向とフリーターの増加はそれほど関係性は深くないようにも思える。
彼らが自らフリーターであることを望んだ節もあるだろう。
フリーターと並んで、派遣社員がブームとなった。
正社員より自由が利くとか、正社員より給料がいいとか、正社員より実質的なキャリアを積めるとか、世間が広がるとか、派遣社員も当初はプラスのイメージで喧伝・周知されていたように思う。
やがて、オタクだという言葉が登場してきた。同時期、登校拒否児童という言葉も平行して出てきたように思える。
そしていよいよ引き籠りという事態が生まれてきた。。。
バブルが弾け、日本の長い経済凋落が始まった。。。サラリーマンの終身雇用制度は崩れ去り、年金制度の破綻が目前に迫ってきた。。。
"鬱"なんて言葉が"うつ病疾患"とは別の意味でブームのように流行りだしたのも同じ頃だ。

オトナになりたくない。。。
オトナになれない。。。
オトナになんかならなくていい。。。

アニメが好きで何が悪い?? アイドルが好きで何が悪い??
フリーターで何が悪い?? サラリーマンなんて会社の奴隷じゃないかっ、将来の安定性なんてもう過去の話じゃないかっ!?
事実、別に何も悪くない。誰にも迷惑を掛けないなら問題はない。。。
なんだか社会がそんな風潮を受け入れ始めた。。。
現在40才くらいの人たちがそういう社会の先頭的世代なのかも知れない。
いや、わたしの世代50代にもきっとそういう輩はいたはずだ。そういう輩が最初だったのかも知れない。
けれどそれが現在の40代、30代の中で或る種のイニシアティブを握るまでに多勢化しているかも知れない。

 わたしなんかもまた、他人に迷惑を掛けないんならそういう趣味も別にどうでも好きにすればいいんじゃないか、と思っていた節がある。
けれど、どうやらそれではいけなかったのだ。

子供のままでいる所為で、オトナになることを拒否してきた所為で、多くの人々が、他人の身になって考える、自分の身に置き換えて考えるということがまったくできないのだ。
マンガやアニメ、映画の中の主人公にはなれるのに、同じマンガやアニメ、映画の中の名前もないような端役にはなれないのだ。
それはそれらが齎す世界観というものが、洗脳行為近い環境だからだ。

すべての人々が、それぞれに独自の感じ方、考え方を持っていて、そのそれぞれのすべてが正当性を持っているのだということを理解し、受け入れない限りオトナにはなれない。

9.11以降、世界中に噴き出したイスラム・フォビアとナショナリズムの高揚。。。
一般のアラブ人の立場になって考える人はごく僅かな人々だ。
誰もテロリストと呼ばれる人々の身になって状況を把握しようとはしない。

嫌韓、嫌中とでもいうのか、そういうブームのようなものの背後で、韓国や中国の一般の人々の立場に身をおいて考えるというようなこともほとんど見受けられないのが実情だろう。

シリアの難民受け入れに限界があるのも分かる。だがそれ以上に、シリアの人々にあの国で住めという方がどうかしているということだ。

世界中の人々がすっかりエゴイスタであることを容認しているように見える。そうでないとすればやはり同じように他人の身になって考える、自分の身に置き換えて考えるということができないのだと考えるしかない。

世界中の多くの人々がスター・ウォーズやスパイダーマン、バットマン、アイアンマンに夢中になる時代だ。
世界中の多くの人々がマンガやアニメに夢中になる時代だ。
それは世界中の人々が子供のままでいることを示している。。。
どこかの首相や大統領候補がまるで子供であるのも同じ現象なのかも知れない。

だからこそ、もう一度言うが、それを個人の自由、個人の嗜好の自由と権利だということはもはや認めがたい事態に至っているのだ。
もちろん、自由と権利はすべての人々にある。
もう一度繰り返すが、だから単に暇潰し的に愉しむことを否定している訳ではない。
そんなものに夢中になるな、ということだ。
そして創り手は、明確な一線を画す必要性があるということだ。
子供文化とオトナ文化をなだらかな曲線で繋ぐのではなく、その間には断絶が必要であるという主張だ。

子供のままで社会や世界を構築することは不可能なのだ。
他者の自由と権利を認め、それぞれの正当性を認めない限り、この世界はますます愚かな選択を繰り返し続ける他ないということだ。

 我々ひとりひとりが自分自身の子供時代と訣別しなければならない。
自身の子供時代と訣別するには、もちろん、子供時代の文化に別れを告げなければならない。
暇潰しに眺めるくらいはいいだろう。けれど本当に暇潰し程度に、だ。
そんなものに夢中になってはいけないのだ。

甘いものが好きだからといって、ケーキやチョコレートばかり食べていてはいけないことくらい誰だって知っている。けれどそれと同じことが分からないのだ。好きだから、楽しいからといって、そればかりしていてはいけないということだ。ケーキやチョコレートを食事代わりに食べるのをやめたり、一日に1回、1つに制限したりするのと同じように、ゲームでもアニメでも、自分自身を自制することが出来なければ、欲望に引き摺られるままでいるようでは、とてもオトナにはなれないのだ。
自分自身の意志でもって、自身の子供時代と訣別することだ。その為には以前にも書いたように、子供文化をオトナ仕様にしないことだ。子供文化をオトナ仕様にしてしまうことで、訣別ラインがなくなってしまう。そのラインを明確にする為にも、子供文化は子供文化の範囲(一般的には"幼稚"、"単純"と表現される)に留めて置かれるべきなのだ。

それと言っておくが、わたしは制作者側の人間をバカにしている訳ではない。真に制作者として創造的業務に関わりたければそこに熱中するのは当たり前だろうし、我々は子供時代にそういう人たち(クリエイター)の恩恵を受けて育ってきたのだ。けれど、それは単に享楽者である人々の立場を擁護しない。クリエイターを目指して本気で取り組む人と単に享楽的に受け取り手として楽しむ人々との差は僅かではない。実践の伴わない言い訳は通じないと釘を刺して置こう。(※そしてクリエイター側はやはり子供向けの創造に取り組むべきなのだ。自身の欲望に引き摺られるままに、オトナ仕様に取り組むべきではないのだ。たとえば成人漫画というのは特殊なものとしてあるべきで一般化されるべきではないということだ。)

オトナたちが子供文化を簒奪する所為で、本来は子供用であるはずの関連商品の価格が高騰する。。。先日、ニカラグアのショッピングセンターで"スター・ウォーズ"のキャラクター人形が200ドルほどの値段で売られていた。バカげてる。子供たちには手の届かない値段だ。もちろん、安い価格のものもあるのだろう。けれど、精工にできたオトナ向けの人形を見せられたら、誰だってそっちが欲しくなる気持ちは理解できるだろう。オトナが消費対象として考慮されれば、それだけで価格は上昇するのだ。或いはバカなオトナたちが買占めたりする所為で、子供たちの前から消えてしまうのだ。子供たちの文化は、子供たちの手の届くところに置かれるべきなのだ。
 そうだ、日本ではアイドル文化がオトナたちに簒奪されているようだけれど、それもまた子供たちのものであるべきものが、オトナたちの参入によって歪められていると感じないだろうか??コンサートのチケットは多分、オトナたちが買い占めてしまうのだ。子供たちよりオトナたちがそれらを支配するのだ。それを簒奪というのだ。子供たちの手に返してあげて欲しいと言っているのだ。

子供たちが将来、自らの意志で子供時代から卒業できるように。。。
 
 
 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出 [El Salvador 2016]

教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出 2016.5.10 産経ニュース

 自民党は9日、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出する。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていた。
 改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
 また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情がある。
 党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
 日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討する。

-----------------------------------------

上のニュース、なぜか反自民の方々だけが騒いでいるが、そういうものでもない。
問題は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」という非常に曖昧な定義にある。
右左関係なく、教員が生徒に対し、特定政党の後援会活動・勧誘など選挙に関わる行為を行うことを禁じるのはやぶさかではない。教員が自民党に投票せよと言うのは、同じく公明党や民進党、共産党へ投票せよというのと同様に禁じられて然るべきだ。

 残る問題は、政治教育をする上で教員がどこまで生徒の自由と権利を守れるかということだ。
それは"中立"を意味する訳ではない。日本ではすぐにこういう場合、"公正中立"が求められるけれど、そうではなくて"自由と権利"を保障することなのだ。

 何度もblogでは引用してきたオリヴィエ・トッドの「小中の教員にはひとつの使命があった。それは子供たちを育て、批判精神を目覚めさせ、彼らにフランス式公教育の第一段階たる初等教育の修了証を取らせて、公務員試験を受けられるようにすることである。教師は進歩の信奉者だった。(中略)公民の授業で彼は、『〔指導要領に出ている〕神について』という項目で、『信じる者も、信じない者もいる』と説明する。そして、『各自がその望むところをなす』のが権利というものだ、と結んだ。宗教については、現存するものを列挙するにとどめ、しかも『まったく信仰心を持たない人もいる』と付け加えた。」という立場だ。

 そもそも政治教育の過程において、教員が現存の政党について解説することは間違っている。それには教員の恣意が反映されざるを得ないだろう。政治教育とは思想哲学の授業であり、政治システムの歴史的展開と選挙システムについての解説に留められるべきだ。たとえば原発問題、辺野古移転問題、安保関連法案など個々の問題については"正答なき課題"として議論させ、各自の意見を尊重しなければならない。授業の成果は答えを出すことではなく、これから先もその同じ問題について各自が関心を持って学び、考え続けてゆくということにあるべきだ。
 記述式試験は、たとえば原発問題について各自の意見を述べさせるという問題だとして、回答文の中で生徒が十分に様々な情報を把握し、熟考を重ねている形跡があれば、たとえどんな結論であろうと満点評価すべきなのだ。

 だがそういう教育をできる教員が日本全国でいったい何人いるだろうかということが最大の問題となる。
それは教員指導要領にそう書いたからといって、簡単に周知徹底できるものではない。寧ろ、そういった教育を受けて来なかったほとんどの教員がそれを理解しないのではないかという危惧が高いだろう。


---------------------------------------

 以下に"軍縮問題資料" 1998.3号に掲載された獨協大学 黒田 多美子教授の"ドイツの教科書と平和教育 -ドイツの教科書にみる「平和」への視点-" をリンクしておく。
   




nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

El Salvador 写真報告 2016 [El Salvador 2016]

 そんな訳で、エルサルバドルからコスタリカへ戻って参りましたが、最後に少しエルサルバドルでの写真をまとめてみたいと思います。
ただ前回書いたようにエルサルバドルでは一切の観光らしき観光はしていませんので、観光地情報という訳ではありませんので悪しからず♪

DSC00528.jpg  DSC00530.jpg

Yancyたちに連れて行かれたのは、San Salvador市内にあるMichoacanaというアイスクリーム屋さん♪
オーナーがメキシコ人ということで、唐辛子まぶしのアイスクリームが食べれるらしい。
クーラーの効いたちゃんとしたステキなアイスクリーム屋さん。。。イタリアンジェラートもあるのだが、それとは別に棒つきアイスクリームが名物♪
なんと80種類以上の棒付きアイスクリームがところ狭しと並んでいる!!
わたしが頼んだのはマンゴーとチーズとイチゴのアイスクリーム。そして唐辛子(チリ)を付けてもらうことに。。。
わはははははははははははは

DSC00529.jpg

いや、メキシコではあらゆるフルーツに唐辛子をつけてサラダのように食べるけれど、この手の唐辛子は実はそれほど辛くはない。※メキシコには十数種類の唐辛子があって、それぞれに味が違う。
冷たいし、甘さの手伝って、ほとんど辛さは感じない。後口でびりっとくる程度か??
もとのアイスクリームがホントに美味しいので、普通に美味しく食べれます。わはは

DSC00636.jpg DSC00638.jpg

さて、食べ物シリーズのお次は、エルサルバドル名物ププサ♪
いわゆるトルティージャなのだけれど、中に色んな具材を包んで焼いてくれる。
具材の種類ゆ組み合わせが自由なので、作り置きのトルティージャでは味わえない柔らかさが特徴。
トルティージャにも、トウモロコシの粉とお米の粉の2種類あって、好きな組み合わせを頼める。
頼んでからその場で作ってくれるのが嬉しい♪
これぞエルサルバドル名物という食べ物です。

DSC00640.jpg  loroco.jpg

写真はロロコという花とチーズを挟んだお米のトルティージャ。

そそ、ということでエルサルバドルでは他の中南米諸国より草花を食べる習慣があるみたい。
ロロコの他にもイソテと呼ばれるもの、それ以外にも名前を忘れたけれどいろいろある。

izote.jpg omlete.jpg

写真はイソテと、イソテを使って作ってみたオムレツ。
まあ、彼らはロロコは大好物で、イソテは大嫌いだと言うのだが... わたしに言わせるとどちらも大して味がない。わはは

 さて、お次は買い物編。わはははははははははは

NIcaraguaやPuerto Viejoのような何も売ってない=手に入らない国や町にいるとSan Salvadorは買い物天国のような気になる♪
MedellinやQuitoに比べても、San Salvadorは品物は豊富だと言える。
韓国食材店はバカみたいに高くてほとんど買う気になれなかったけれど、下着なんて0.65ドルから1.45ドルで売ってた!!

IMG_0043 (1).jpg IMG_0036 (1).jpg

Price Martで見つけたのはなんとビクトリノックスのリュック(もちろん、ホンモノ!! 笑)
たったの45ドルでのセール♪
下着やフライパン、ミニミニシャンプーまで。食品は韓国海苔や兵庫県産のざる蕎麦、豆板醤やアガー、それにコロンビアのパン・デ・ボーノのミックス、辛ラーメンやメキシコのモーレ、そして見たこともないワサビ胡麻。。。わはは


そんなこんなで買い物三昧♪

愉しくものんびりした2週間♪
ありがとー、YancyとCarlos!! 

DSC00658.jpg

おまけは彼らのマスコット、名前は姫Hime。

IMG_0046 (1).jpg

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行
前の10件 | - El Salvador 2016 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。